‐‐1900年夏の第三月第四週、カペル王国、ペアリス2‐‐
国王代書人と入れ替わるように、王妃は夫の執務室から退室する。宮殿のあちこちにある絵画と、すれ違うたびに目が合うようになってしまった。彼女は静かな溜息を零し、レースのカーテンを束ねて庭園を見つめた。
深緑が風になびく様子は故郷を想起させる。彼女は揃えた手を崩し、芝生の上に目を凝らした。
庭園を吹き抜ける風は、草木をなびかせて音を立てる。大都市の中心にぽっかりと開いた開放的な空間は、彼女の心をいくらかは癒してくれる。
廊下には点々と、エストーラから贈られた名画の数々が飾られている。世界の情報網のすべてを、皇帝が握っている。そう思うと、彼女は総毛立った。
例えば、レノー率いる親ウァロー派の大臣たちが、カペル王国の覇権を握るために、デフィネル家の醜聞を広げているかもしれない。皇帝はそれをいつでも監視できる。宮殿のどこにも隠し部屋などないのだから。
親ウァロー派でなくても、何気ない会話からカペル王国からの利益の収奪を目論む可能性は多々ある。それこそ、名画を積み上げて焼き払ってしまえれば、少しは安心して暮らすことが出来るだろうに。
王妃は前髪をかきあげ、深い溜息を吐く。宮廷特有の重い長髪が、彼女には鬱陶しく感じられた。
「お義母様」
「あぁ、フェルディナンド。おはよう」
彼女が振り向くと、皇太孫フェルディナンドは掃除道具を手に持ち、使用人用のエプロンを着込んでいた。白い頭巾こそ高級なシルクの滑らかさが際立つが、皇帝の孫と言われれば珍しい装いと言える。
「え、どうしたの?」
「あぁ、これ……。イローナが生理で辛そうだったので、身の回りの片づけをしていたんです」
彼女は以前彼にした助言を思い出した。どうやらこの少年は、律儀に言いつけを守っているらしい。フェルディナンドは首を傾げた。アリエノールは顔を綻ばせ、少年の肩に手を回す。彼は「わっ」と短い悲鳴を上げた。
「気を遣ってくれて有難うね。イローナって、ちょっと分かりにくい子だから」
娘の性格はおそらく自分に似たのだろうなどと、彼女は考えていた。それだけに、あまり格式ばった教育は向かないだろう。その点、フェルディナンドはむしろ「お堅い」人間で、両者はパートナーとしてはともかく、仕事仲間としてはいい塩梅の関係性に思えた。
「お義母様……。多分、お爺様は、カペル王国を害する意図はないと思いますよ」
アリエノールは不意の出来事で思わず顔を引き攣らせた。絵画の視線がゆっくりと二人の間を見つめる。小さな視野の中で、深い緑の海がうねっている。
「聞いてたの……?」
「お義母様が沈思されているときは、概ねお義父様と意見の相違があった時です。お義父様は先日、お爺様からの贈り物に大層喜んでおられましたので、恐らくそのことかと思いました」
「……違いますか?」
フェルディナンドはアリエノールの顔色を窺う。自信なさげな上目遣いが、却ってその正確さに不気味さを加えていた。
「そう。貴方には話しておこうかな。実のところ、私は皇帝陛下の腹積もりに警戒しているの。何か良からぬことを考えているんじゃないかって」
皇帝は、プロアニアに対して軍事行動を起こさなかった。国境に壁を設けただけで、具体的な行動を起こしていない。あくまで、その主戦場をカペル王国に向けようとしている。
一言で言えば、それはとても狡い選択だった。もし万が一孫に何かあろうものなら、皇帝側から一方的に関係を断ち切って、プロアニア支援に転じることも考えられなくはない。両家の確執の深さがあまりに深いだけに、完全に信用することは出来ないと言わざるを得ない。
フェルディナンドは眉尻を下げ、小さく頷いた。
「残念なことですけど、信用して頂けないのは仕方がないことですよね。僕にはわからない思惑もあるかもしれない。ですが、信じてもらえないのは……悲しいです」
王妃の胸がずきりと痛む。自分の身内に対してされる評価に傷つけられるのは、彼女にも覚えがあった。
王妃は手を組み替え、目を細めて笑う。
「そうだね。私は信じられないけど、それと結果とは全く違うものだから。貴方は気に病む必要はないからね」
そう言って、フェルディナンドを撫でると、彼女は足早にその場を去っていった。