‐‐1900年夏の第三月第四週、カペル王国、ペアリス1‐‐
残暑に陽炎が揺れる王宮には、深緑の葉が生い茂り、疲れ目に優しい景色が広がっていた。
芝生の緑と花壇の黄色が萌える中で、アンリはエストーラからの贈り物を戦地へ配給すべく手筈を整えていた。
エストーラから派兵されたコボルト騎兵の分と、戦地へ送られたカペル王国軍の名簿にある人数分だけ、皇帝の家紋が彫られた薬篭が送られてきたのである。薬篭の中には傷薬の入った包み紙と、痛み止めの飲み薬が詰めてある。それとは別に紙煙草もいくつかあり、前線の兵士が直近でほしいものを詰め込んだような支援が、宮廷に齎されていた。
アンリはこれを喜んで前線に配送する手配をしている。アリエノールはそんな夫を見守りながら、皇帝からの贈り物のサンプルの、薬篭の内側を注意深く観察していた。
彼女は内側に彫られた文字と図形を慎重に読みながら、これが『監視する絵画』の魔術と同質のものであると判断した。
彼女はアンリを一瞥する。相変わらず上機嫌に手配をしているが、彼女は薬篭の内側を再び確認し、夫の頭目掛けてそれを投げた。
「いてっ!アリエル、どうした?」
アンリは持ち前の強面を存分に発揮して、妻を睨む。すっかり強面に慣れてしまった彼女は、薬篭を再び拾い上げ、彼の胸に押し付けた。
「内側を見なさい」
アンリは目を瞬かせ、言われるがままに中身を確認する。皇帝の家紋の裏側には、円形と、その中に細かな文字列が描かれていた。
「監視する絵画の魔法。多分、前線の様子を傍受するつもり」
アリエノールは薬篭の内側をなぞりながら言う。国王は暫く薬篭の中にある指を追っていたが、口元を手で覆い、首を傾げる。
「それの何が問題なんだ?皇帝陛下が裏切るとでも?」
「すでに裏切っているかもしれないでしょう?こっちの情報が筒抜けになるよ」
アリエノールは薬篭を振り回して言う。紋章に書かれた瞳は、ぐるぐると目を回していた。
アンリは得心して、妻の手から薬篭を受け取る。暫く薬篭の家紋と睨みあった彼は、再び机に向き直って手配の準備を続けた。
「ちょ、ちょっと……。話聞いてた?」
「あぁ。忠告有難う。だがやはり、俺は皇帝を信じることにするよ」
王の屈託のない笑みに、アリエノールは眉間に皺を寄せる。暫く睨みあった後で、アリエノールが深い溜息を吐いた。
「もう、お人よしなんだから……。いいよ、送りなさい」
「有難う。君は本当に賢いな。いつも助言、助かるよ」
彼は王妃を抱きしめる。王妃はじっとりとした目つきで肩越しに薬篭を見つめた。心なしか家紋がにやついているように見えたので、彼女は早々に抱擁をやめた。
「こちらの情報が皇帝に筒抜けになるということは、例えば皇帝がプロアニアと結託していた場合に、敵に情報が流れるということ。完全にないわけじゃないから、あまり信用しすぎないでね」
「あの人は大丈夫さ。良くも悪くも人を裏切れる人間じゃあない」
アリエノールは呆れた様子で王を見つめる。彼女は、この男の為に、自分の衣服が肌にくっつくのではないかと疑った。彼女は残暑だけでなく、何か暑いものを肌で感じていたのである。
なお訝しむ彼女の肩を、王は二、三度叩いてみせる。
「俺に人を見る目があるのは、君を妻に選んだのだから間違いないよ。だから全く、心配ない!」
アリエノールは顔を真っ赤にし、右手で顔を覆って視線を外す。アンリは涼しい顔で再び作業に戻った。
やがて手配が済むと、彼は大声でリュカを呼ぶ。しばらくして、扉をノックする音が部屋に響いた。
「陛下、お待たせいたしました」
「おぉ、入ってくれ。ちょっと贈り物の為の代筆を頼みたい」
リュカは短い返事をすると、扉を開けてアンリのもとへ向かう。アンリは椅子から立ち上がり、リュカに着座を促した。リュカは王妃を一瞥し、ちょうど新婚夫婦を見る時にするように、茶化すような笑みを向けた。
彼女は熱を帯びた耳を軽く撫でる。噴き出す汗で纏わり付く服が、アリエノールには大層鬱陶しく感じられた。