‐‐1900年夏の第一月第二週、エストーラ、舞台座‐‐
その日、舞台座に集まった人々は、偉大な芸術への葬送歌を歌った。皇帝の予測は不思議と的中する。今回の悲劇的な予測も真実であろうと信じた彼らは、これまで世界を彩ってきた芸術たちに向けて、感謝とせめてもの償いとして歌を送った。
舞台の上には人気のオペラ歌手と、オーケストラ楽団が立ち、沈んだ空気を包み込む、静かな音色が劇場に反響する。薄暗い室内を照らすシャンデリアの光は、舞台と中央だけを優しく照らす。最上階の観覧席では、ヘルムートが一人佇んでいた。
神と共に安寧を過ごすことを歌うささやかな祈りの歌が、劇場の壁に反響し、天井高くまで昇っていく。歌手の透き通るような高音に混ざって、蝋燭から立ち上る細い煙のように、幾つかの声が折り重なっている。劇場に集う人々は、皆帽子を脱ぎ、先祖代々の至宝たちへ、神からの救済が与えられるように、切実な懇願を捧げていた。
やがて悲しい歌が終わると、階上にいた皇帝が、舞台へと向かう。静寂が場を支配する中、暗闇の中で僅かに姿勢を動かす楽団員たちや歌手の姿が、観衆に晒されている。その珍しい動きの一つ一つが、観衆にとっての一時の関心事項となっていた。
十五分後に、舞台の灯りが再び灯る。舞台中央に現れたのは、以前より痩せ衰え、真っ赤に腫れた瞼をした皇帝ヘルムートの姿であった。
観衆たちは皇帝の憔悴ぶりに驚き、言葉を失った。元々繊細な心を持つ穏やかな人物であっただけに、これまでの苦境にすっかり参っているのだということは容易に理解できた。
皇帝を賛美するような声はなかった。だが、非難する声もまたなかった。かつて余所者皇帝を国家の敵とみなした民族主義者たちでさえ、これまでの彼の姿勢を見て、皇帝に対して乱暴な言葉を投げかけることはしなかった。
皇帝は銀の杖に体重をかけ、その陰気な瞳を暫く伏せてから、臣民を見回して語り始めた。
「皆様もご存じの通り、我が国にとって、芸術は他に代え難い至宝であります。私自身、このノースタットに降り立ったその日から、溢れんばかりの芸術の光に心を奪われたものです。我が国は、そうした素晴らしい文化とそれを愛する心豊かな人々に溢れています」
皇帝は静かに咳き込む。一杯の水差しに僅かに注がれた水を口に含み、彼は再び臣民を見た。
観衆たちの真剣なまなざしが、劇場全体から舞台へと注がれている。
「そして、私は、そうした人々の愛情が、世界に豊かな心を育むために必要なものだと、そう確信しています。私たちの血を辿る、先達たちのひたむきな心が、何よりも、私達の胸を打ち、耐え難い危難や、時に折れそうな繊細な心に打ち克つ勇気を与えてくれるでしょう。その勇気が、いずれ未曽有の災害を退ける力になると確信しています」
皇帝は、臣民の瞳に悲しみに混ざった復讐心を感じ取った。
しかし、彼はそれを喜ぶよりは憂いていた。もし戦争が終わり、その結果が凄惨なものとなったとしても、せめて被害者である双方の国民にはいがみ合うことが無いようにと願っていた。
皇帝にとって、敵とは貧困そのものであり、確かにプロアニア人の罪は看過し難いものではあるものの、その本質を取り除くことの方が重要であろうと考えていた。
そうでなければ……憎しみの連鎖を断ち切らなければ、真の勝利は訪れない。それ故に、皇帝にとってこの戦争は『災害』であり、『侵略』と語ってはならないのである。
「……正直、私は非力で、皆様臣民の助けがなければ、この国を守ることは出来ません。どうか、この災害に対して、私達に力を貸してはくれないでしょうか?この国の豊かで、多くの実りを齎してくれる芸術と文化の光が、損なわれることのないように。二度とこの悲しい別れが訪れることのないように。どうか、どうか、この通り」
皇帝は銀の杖を地面に置き、静かに膝をつく。劇場にざわめきが起こる中、彼は床に額を預け、臣民全員へ向けて土下座をした。
誰一人言葉を投げかける者はなかった。「侵略者」に立ち向かう覚悟を持たせるには、彼の行動はあまりに弱気すぎたからだ。
しかし、誰も非難もできなかった。在位以来何度も暗殺未遂の被害に遭い、妻を亡くし、息子夫婦も亡くし、孫さえもその手から離さなければならなかった。兄弟は彼が生まれる前に他界し、遠く故郷に残した両親にさえ、顔を見せることもできない。そうまでして臣民の幸福のために、執務に没頭した善良な皇帝である。
劇場に集った観衆たちは、皇帝のつむじを見つめながら、各々が胸に手を当てて考えた。
お世辞にも、この皇帝の優れた才能を見つけることは出来なかった。彼は誠心誠意努力を怠らなかったが、そのほとんどが裏目に出たし、今回の悲劇も、プロアニアにほんの一瞬でも心を許した気の緩みの為に起こったことである。それでも、悪いことは常に迅速に臣民や家臣に告げ、その対策に奔走する誠実さだけは、紛れもない本物であった。
そして、これまでの皇帝や国王の中に、そこまでして臣民に尽くした者は恐らくいなかった。
「……一致団結して」
一人が声をあげる。それに倣って、劇場に言葉がこだました。彼らは、苦しい日々が続くだろうことを予見した。貧困や、若者の死や、罪なき者への暴虐が降りかかるだろうことを想像した。
‐‐それでも、この皇帝の為なら‐‐
皇帝が顔をあげる。嘘偽りのない言葉の礫が、劇場一杯にこだました。
思わず彼の視界が歪む。荒れた唇がわなわなと震え、枯れた頬を雫が伝う。
その日、エストーラの臣民は、初めて災害に立ち向かう覚悟を決めたのであった。