‐‐1900年夏の第一月第二週、エストーラ、ベルクート宮1‐‐
水晶玉に浮かび上がる映像が、ある一か所に集められていることに皇帝ヘルムートが気づいたのは、春の第一月第二週ごろのことである。宮廷に飾られていた主要な傍受用の絵画が片付けられ、布に覆われると、日に日にそうした絵画から受け取れる情報が暗闇だけになっていったのである。
奇妙な出来事に、ヘルムート自身も訝しみながらも、この有事に、敵国の芸術をまさか展覧会に利用するなどとは、夢にも考えていなかったのである。せいぜいが各国や国民にこれらを売り捌き、金銭に代えるためだろうと考えていた。
ところが、今水晶の中にあるのは、プロアニア国民に向けられた、好奇の瞳ばかりである。それは暗に、エストーラが培ってきた碩学が敗れた瞬間でもあった。
ヘルムートは、朝の心地よい鳥の囀りを聞くのさえ忘れ、向けられた瞳の一つ一つを見つめた。そして、彼は強い恐怖と悲しみに満たされたのである。
好奇の瞳には笑みが貼りついていた。背筋が凍るような、嗜虐的な笑みである。「この無価値で矮小なものをどう料理してくれようか」という、暗い期待感に満ちた歪な笑みである。それはただ一人の邪悪な人物が向けたものでさえなく、大多数のプロアニアの人々が、心の底から沸き立つフラストレーションの為に、向けたもののように思われた。
老帝の胸は張り裂けそうな痛みに見舞われた。この人々はエストーラで暮らす臣民のことを、幼い頃から『劣った人々』だと教えられて育ったのだ。そして、その教育の成果が花開くと、あらゆる暴虐を許される万能感に、抑圧された精神の捌け口を見出したのだ。こうして実った毒果は、見る見るうちに巨大に、しかも甘美に育ち、プロアニアという国全体に根差したのである。
老帝はこうも考えた。彼らから臣民を守らなければ、その為に、彼らの幸福を守らなければ。しかし、彼は自分がこのことについて無力であることを知っていた。彼は己の無力を呪った。彼らに張り付いた嗜虐的で暗い万能感を取り除くことのできないもどかしさに打ちひしがれた。
『退廃芸術展』の根底に流れるテーマが、何よりも老帝を苛んでいた。
水晶の中に浮かび上がる笑顔に耐えかねて、彼は目を瞑り、小鳥の囀りが響く青い空を仰いだ。両の掌を合わせ、息を殺して小鳥のさえずりに耳を傾ける。そして呼吸を整えると、恐る恐るその目を開いた。彼の細い瞳が潤んだまま、遥かな青空をとらえる。美しい澄んだ空に、小鳥の囀りに混ざって子供たちの笑い声が響く。安堵のあまり零れ落ちそうになる雫を、彼は何とか涙腺の裏に押し込んだ。
彼はささやかで代えがたい幸福から注意を逸らし、ゆっくりと首を垂れる。嗜虐的な笑みは絶え間なく現れては順序良く流れていく。流れ作業の観覧に、身震いするほど統一された顔色の人々が現れては消えていく。
背後でノックの音が響く。彼は「入りなさい」とノックに応じる。彼を長らく支えた家臣の、見慣れた姿が現れる。
「陛下、アインファクス様より、穀物の配給についての報告書が纏まりましたので、ご報告いたします」
皇帝が全幅の信頼を置く家臣ノアは、水晶の前から身動ぎしない彼を見て、暫く返事を待つ。
「……陛下?」
ノアがヘルムートのもとに近づく。ノアは落ち切った肩にかかる暗い影に、物憂げな皇帝に長年仕えた彼にしか分からない強い違和感を覚えた。
「ノア。私は……命こそ宝だと思っている。その為にやむを得ない犠牲があることを、飲み込む覚悟がある」
「陛下……」
ノアは恐る恐る水晶の中を覗き込む。紺や黒色の民族衣装を身に纏った人々が、好奇の目でこちらを見つめている。獅子の群れがシマウマの子を眺める時のように、彼らは無防備に白い歯を晒していた。
「しかし、私はエストーラの皇帝として、臣民を守る義務がある。君主は国家第一の僕であるから、私は身を粉にして、自らの命に代えても、我が国の臣民を守らなければならない。その誇りも、幸福の全ても……」
ヘルムートは静かに顔を持ち上げる。色とりどりの笑い声や挨拶を交わす人々の姿が、宮殿の前を往来する。小鳥の囀りと、降り注ぐ日差しよりもなお眩いものを、皇帝は目を細めて見つめた。
「あの長靴が我が国の土を踏まぬように、国防を強化してくれ。私のことを、どうか信じてほしい」
四つの瞳が、水晶に映る明るい表情を睨む。この不幸な人々を、老帝は一時的に『敵』とみなした。
「このノアが、確かに承りました」
深い礼と共に、皇帝は静かに頷く。穏やかな春の日差しが、梟の絵を照らした。