‐‐●1900年春の第三月第一週、エストーラ・プロアニア国境、スエーツ山脈2‐‐
コボルト奴隷達に明確な名は与えられていない。それは歴史上類を見ないほど優遇されてきた『奴隷』としての限界であるが、しいて言えば、彼らは仲間たちに愛称を付けて呼び合っていた。その愛称が、退役したコボルト奴隷達、つまり一般市民となったコボルト達の呼び名となった。
よって、コボルト騎兵の隊長である彼の名を敢えてつけるならば、『フェケッテ』である。もっとも、彼に親しみを込めてその名を呼ぶような仲間たちは殆ど残っていなかった。彼らの多くは皇帝や要人を狙った暗殺者達の凶刃に斃れるか、過激派の宗教原理主義者の暴動の鎮圧に斃れるか、各地の局所的な戦闘で命を落としていたためだ。そうでなくともすでに退役をして一般市民の身分を獲得しており、彼も運命の悪戯さえなければ、既に平和に武器商人でもしていたことだろう。山道の合間にある日陰にもたれ掛かり、休憩中のコボルト騎兵達に紛れたフェケッテは、煙草をふかしながら、空に立ち昇る煙が霧の中に曖昧に溶けていく様をぼんやりと眺めていた。
彼自身、大戦争に参加した経験があるわけではない。これまでの細かな事件の処理や鎮圧に彼方此方駆り出された経験と鍛錬だけを頼りに、戦わなければならなかった。
腰に帯びた斧はカペルの重騎兵に打撃とあわよくば斬撃も与えられる万能兵器だが、プロアニアの歩兵部隊には無力である。彼は傍に立てかけた相棒のマスケット銃を一瞥する。
彼は戦士の誉れ、などという下らない矜持には心底辟易していたが、自分を守る武器と装備に対する敬意だけはしっかりと継承していた。手入れの行き届いたマスケット銃は、新品と見紛うばかりだが、十数年愛用した年代物である。
空模様は相変わらず優れないが、霧の上に僅かに覗く青みがかった空が、気まぐれな山の機嫌がすこぶる良いことを教えてくれる。湿った鼻先を軽く撫でながら、黒い体毛の尻尾を軽く揺らした。
「ヤニくせぇ」
彼のつぶやきに、仲間達はケラケラと笑う。奴隷としては規格外の高給も、武器の費用と煙草代で、月末には底を尽きる。コボルト騎兵は概ねそうした刹那的な暮らしをしていたので、彼らにとって、ヤニ臭いというのは日常的な冗談に過ぎなかった。
「皇帝陛下は完全に籠る気ですよね。俺たちは平和なんすかね」
「さぁな。カペル王国に派兵させられるかもな」
彼は煙草を咥えたまま、乱暴に答える。黄ばんだ犬歯が僅かに顔を覗かせた。
「えぇ、嫌っすねぇ」
兵士は笑ったままで眉を顰める。彼の尻尾は垂れ下がっていた。
「はぁぁぁー……マジで怠い」
フェケッテは頭を搔いて答える。ケラケラと笑う声が、やまびことなって反響した。
霊峰シュッツモートは静かにプロアニア・エストーラ両国の人々の営みを見つめている。煙草の残りが少なくなると、彼は短い煙草を地面に放り、足で揉み消した。
「じゃ、俺行くわ」
フェケッテはマスケット銃を肩にかけ、手を挙げて歩き出す。彼が足をどかした先に、休憩中のコボルトが屈みこむ。彼は潰れた煙草のごみを摘まみ上げて溜息を吐いた。
「もう、煙草のごみくらい回収してくださいよぉ、隊長」
笑ったままのコボルトに、謝罪のジェスチャーだけを残して、彼は驢馬の上に跨った。
驢馬はそれを嫌がるように嘶き、乱暴に山道を駆け上がる。フェケッテは驢馬の横腹を優しく蹴っては、不服そうなこの驢馬の方向を調整する。彼は驢馬を慣れた手つきで操縦しながら、ちょうど良い岩肌を見つけては、みるみるトンネルの前まで駆け上がった。
煉瓦造りの防壁も、いよいよ完成間近である。煙たいトンネルの中から、隙間風が通り抜けるのも、残り数時間といったところだろか。
彼は石工たちの間に入り、仕上げのレンガ積みを要領よく行う。トンネルを覆う分厚い煉瓦の壁が、その日の夕陽に焦がれて真っ赤になる光景を、彼らは見届けることが出来た。