‐‐●1900年春の第三月第一週、エストーラ・プロアニア国境、スエーツ山脈1‐‐
霊峰シュッツモートの山頂には、春先であっても雪が積もっている。スエーツ山脈の山々が連なる山岳の道に、スコップや土嚢、煉瓦を満載した軍馬の群れが列を成す。旧式の燧石マスケット銃を片手に持ったコボルト騎兵達が、石工職人や建築士の間に混ざって作業を手伝っている。彼らは軍人として、最低限の工学を学んでいるため、設計図さえあれば簡単な要塞や道を作ることもできる。急ピッチで進んだ巨大バリケード建設も、いよいよ大詰めを迎えようとしていた。
山岳の国境に背の高い鉄の柵を設け、浅い堀と木製の剣山を隠した浅い落とし穴を作る。その後、商人たちの出入り口であるトンネル出口を塞ぐ。こうして完全な奇襲対策をしたうえで、敵の侵入口を封鎖する。昨年末の皇帝の言葉に従って、護国の犬人兵達は粛々と作業を進めた。
険しい山岳が連なるスエーツ山脈は、プロアニアによる大規模な切削作業によって、エストーラとの国境に巨大なトンネルが設けられた。分厚く丈夫な山岳の脆い部分を開通させるのには大層骨が折れたものの、今はそれを数か月で埋め立てている。その場に居合わせた工兵達も、いたたまれない気持ちにさせられる。
長い山道の中腹当たりに屯している休憩中のコボルト達は、『宮殿から来た』人間の伝令兵が近づいてくるのを認めた。コボルトの一人が目を細め、燻らせた煙草の灰を落とす。他の一人も、人の迫る方向に耳を向けて立てた。
「隊長、ヴィロング要塞付近で戦闘が始まったようです」
奴隷軍人であるコボルト騎兵隊長の前に、伝令兵が跪く。煙草を咥えて岩肌に寄りかかっていた隊長は、煙草を捨てて火を踏み消した。
「そうか。じゃあそろそろだな。お前ら、仕事に戻るぞ!」
『応!』の掛け声とともに、騎兵隊は武器を担いで国境のトンネルへと向かう。傾斜の大きい山脈の道に、驢馬が地を蹴る音が響く。
長い山脈のごく一部に過ぎないこの荒れた道を、鐙を使わずに驢馬に跨る背の低いコボルト達が駆け上がる。こうした光景はエストーラの古典ではよく見られる光景である。ある程度身長があれば、彼らは馬にも乗ることは出来るが、背が低いコボルトの基本的な乗り物は、驢馬や狼、犬である。
古典の時代を飛び越えた現在でも、鐙も使わずに器用に彼らを乗りこなすコボルトの姿は、エストーラでは見慣れた光景で、特に国境付近の寂れた村落や要塞都市の近辺では日常的な風景となっている。
今は閑散とした山脈の道を、時には崖を飛び越えさせながら、乱暴な動きの驢馬を乗りこなすコボルト達は、馬に跨る伝令兵を殆ど放置して、国境のトンネル前へとたどり着いた。
「調子はどうだ、野郎ども」
「まずまずです」
隊長は飛び降りるなり、耳を立て、集音をしながら煉瓦を手に取る。彼は乱暴にも思える仕草でモルタルを塗り、手に取った煉瓦を積み上げた。イギリス式の強固な煉瓦造りは、山の防壁の最も外側を守る建材で、落とし穴と鉄条網を張り巡らせた『国境の道』を守る最後の砦となる。
寸分の違いもなく積み上げられていく煉瓦の壁は実に見事で、美しく規則的な煉瓦の連なりが、文化人を自負するエストーラ人の『機能美』的な感性を感じさせる。
耳を立てて作業をしていた隊長が、突然武器を手に取る。作業をしていた他の騎兵隊員達も、煉瓦を放ると即座に武器を取った。
煉瓦の裏側に隠れ、息を潜める。耳をパラボラアンテナのように立てながら、身動ぎせずに遠くから近づく軍靴の音に神経を研ぎ澄ませた。
驢馬の嘶きが、霧がかった空に響く。山脈山羊のけたたましい鳴き声が、煉瓦の向こう側で響き渡る。空に舞う犬鷲が羽搏き、霞んだ空の彼方に黒い影を浮かべている。
僅かな閑居の後、幾つもの防壁を越えた先で、くぐもった発砲音が響く。隊長が煉瓦から飛びあがり、即座に前進する。落とし穴の隙間を器用に避けながら、彼はもう一つの石塁、さらに煉瓦の壁、そしてトンネルを塞ぐ巨大な岩壁まで駆けつける。
戦闘はごく少数のプロアニア兵達によるものであった。秘密裏に突破をたくらんだと思われるプロアニア兵数十人は新式で連射性能の高い小銃で、岩の壁目掛けて発砲する。近代兵器を持つ兵士たちに向けて放たれるコボルトの持つ古い小銃による狙撃は、規則的で断続的ではあるが正確で、壁を突破しようとする兵士の手を撃ち抜いては、岩壁の中に顔を引っ込めてしまう。
プロアニアの兵士から「もぐら叩きのようだ」という声が零れる。その兵士が腰に帯びた擲弾を投げようとすると、即座にコボルトの隊長が顔を出し、彼の手を撃ち抜いた。岩壁に飛び上がった隊長目掛けて、兵士の小銃が向けられる。彼は一拍おいて、彼らの発砲を誘うと、その発砲と同時に身を翻し、狭い岩壁の上で飛び跳ね、転がり落ちた擲弾を撃ち抜いた。プロアニア兵が二発目を発砲する暇もなく、擲弾は自軍の周辺で爆発し、狭いトンネルの中に爆風と鉄片が飛び散った。
コボルトの隊長が空中から即座に岩壁の裏に隠れる。後列からの発砲も、虚しく山を削った。
爆風により立った砂埃が収まる前に、撃鉄の調整を終えた騎兵達が顔を出し、耳で伏兵を追いながら発砲する。ごく少数の素人を中心とするプロアニア兵達は、死角からの攻撃に悲鳴をあげながら、トンネルの中を転がり、背中を晒しまま逃げていった。
「……行ったか」
隊長が燧石の位置を整えながらいう。その間も、耳はぴんと立てたままである。
「行きましたね」
ある者は鼻を、ある者は耳を動かしながら答える。調整が終わると、隊長は尻を払い、ゆっくりとした動作で歩き出した。
「悪い、ちょっと一服してくるわ」
コボルト達はその背中を見送ると、そそくさと元の作業へと戻っていった。