‐‐●1900年春の第二月第三週、カペル王国国境、ヴィロング要塞近郊2‐‐
夜になると、戦闘は一旦沈静化した。地上での戦禍は凄惨そのもので、カペル王国軍の塹壕には、鉄の嫌なにおいが充満していた。
「火も焚けないな」
鉄兜は愚痴をこぼしながら、倒れた同志たちを要塞へと運搬する。消え入りそうな呻き声と、砲弾の炸裂する音が、鉄兜の耳の中で響いた。
「また明日もあるよ」
「分かってるよ……。あーあ。傭兵になんかなるんじゃなかったな」
鉄兜が嘆息を吐く。頭上に浮かぶ月光は淡く瞬き、彼らの輪郭だけを僅かに相手に晒した。
「俺の村は、農奴もしょっ引かれて大変だったよ」
石の段差を踏み越えるたびに、被害者の呻き声が響く。周囲は硝煙のにおいで満ちており、背後の星さえも不気味に照準を合わせているように思われた。
「俺ん家は元から時々常備軍の中に組み込まれる傭兵の家系でさ。戦争なんてないって思ってたから、みんな席取りゲームをしてたんだよなぁ」
「俺たちも、鍬とか鋤とか、そんなのばっかり運んでたよ」
担架の上にある傷口は水分を保ったままで、月光を反射して僅かに輝いている。鉄兜は担架から左手を離し、頭を掻きむしった。
「あぁー……、くっそ。ヴィルヘルムの野郎め」
担架が僅かに傾く。大仰な叫び声の後、負傷兵が掠れた声で叫んだ。
「おぉい!手ぇ離すなって!落ちたら痛てぇだろ!」
彼の言葉には怒気は籠っていたが、声量は大きくなかった。
「あ、悪い、悪い……」
鉄兜は担架を持ち直し、再び夜闇をさらに西へと進む。ごつごつとした背の高い岩石が地上から伸びるその麓に、古城ヴィロング要塞はあった。
真っ黒に化粧をした要塞は無機質な分厚い壁で囲まれ、壁には至る所に茨が絡まっている。かつての防衛設備である天然のまきびしであったが、今はただ、寂れた侘しさをにおわせるばかりである。
壁に近づくと、壁一面に法陣術が張り巡らされており、壁の一面一面丁寧に、接近する武器の衝撃を少なくするべく、常に壁の外側に魔術の効果を放っていた。
鉄兜と半目の動きが若干鈍くなる。鉄兜が意識的に速度を上げると、担架を持つ手が重さに痛みを覚える。
「揺らすなよぉ」
負傷兵が鬱陶しそうに眉間に皺を寄せた。壁面を照らす赤い灯が、徐々に輪郭を持ち始める。鉄兜は速度を落として、要塞のある方へ慎重に向かっていく。
「なぁ、弾丸が当たると痛いのか?」
「あたりまえだよ、馬鹿!あっ、つ……」
兵士が喚きたてる。半目は半笑いで兵士を見おろした。
兵士の弾痕は歪な切り傷のようであり、深くはないが砂が混じって輝いていた。
「早く弾を取り除かないとね」
ヴィロング要塞近辺に灯る明りの下にたどり着くと、二人は担架を下ろす。片腕や足を奪われた兵士達が、空虚に暗い夜空を見上げている。
軍医がこちらに駆けつけてくると、泣き言をいう戦士に問診を施しながら、応急手当てをする。彼は流れ弾のように鋭い石の破片を取り除かれると、医師によって『処置済み軽症者』の一団へとまとめて連れていかれる。
「あいつ、軽傷だったんだな……」
鉄兜は周囲を見回しながら呟く。虚ろな目をしたままで地面に横たわる同志の姿が、彼の眼前に広がっている。
夜の壁際に灯る火の周囲に、彫りの深い兵士達の苦悶の表情が浮かび上がる。『重症』『軽症』『処置済み軽症』『要経過観察』『処置なし危篤』などと書かれた明かりの下で、青白い顔をした人々が横たわっていた。彼らは顔を歪ませたり、驚くほどの無表情で夜空の星を眺めたり、放心状態でぶるぶると身を震わせたりしている。軍医は一人で、彼方此方の兵士のもとへ駆けつけていく。医師の助手たちは、包帯を交換する。傷薬を塗り付ける、弾丸を抜き取るなど、医師の指示通りに負傷兵に措置を施す。軍医の怒号に対して、若い助手たちが大声で答えた。
「命があるだけ安いよ」
半目はさらに目を細め、小さな欠伸を零す。鉄兜は耳の中で反響する砲弾の着弾音と耳鳴りに顔を顰めた。
「……そうだと良いよな」
丘を下る風が、草原を揺らす。鉄兜は深い溜息を吐きながら、再び踵を返した。
「さ、俺たちもあと一仕事して、さっさと寝ようぜ」
「はぁい」
半目が鼻にかかったような暢気な声で返す。二人はヴィロング要塞に背を向けて歩き出す。前線の負傷兵を運ぶために、風に倒れる草原の中へと、身を隠して消えていった。