‐‐●1900年春の第二月第三週、カペル王国国境、ヴィロング要塞近郊1‐‐
大蛇はうねる、舌の先から尻尾の先まで
町に鼠を通すまいと、鼠を丸呑む肉の壁
語る名もなき英霊たちの、汗を飲み今日も背を伸ばす
ここ掘れ、繋げ。子蛇は大蛇に、汝の汗は彼らの糧に
鼠が食んだ死屍を積むほど、蛇の毒牙は鈍色に光る
ヴィロング要塞近辺には、要塞自体を守る長い塹壕が完成した。兵士達は、太腿は露出したままで、丈の長いなめし革の鎧を着こみ、長弓や弩といった、なんとも心許ない装備で水分を十分に含んだ泥に満たされた塹壕の上に立っていた。
「今日は早いんだな」
恵まれた装備の鉄兜が、既に持ち場についていた半目の兵士に声をかける。気だるげな垂れた瞼が、地平線の向こうを睨んでいた。
「……今朝は栗鼠を逃がしたから」
鉄兜はそれを単なる戯言かと思い、「振られたか」とにやつきながら聞く。全身をばねのように使うために、塹壕の中はある程度のゆとりが作られた。
「嫌な予感がするんだ……今日は……」
半目の声は抑揚が少なく、僅かにかすれていた。鉄兜は即座に武器を構え、臨戦態勢に入る。
「お前の勘に肩を預けることにするぜ」
「ありがと」
言葉が短く区切られる。癒しの来訪を待つ兵士達は、そのそぶりも見られないことに気づくと、一人、また一人と、余裕のない騎士たちのように地平線の向こうを睨んだ。
隣人の息遣いさえ聞こえるほどの静寂。ただの一呼吸さえも、騒音と呼んで差し支えなかった。
鉄兜と背の高い地平線の隙間という細い視界に精神を集中させているうちに、鉄兜は細かな地鳴りのような音がカタカタと鳴り出したことに気づいた。
「……おい、まじかよ。来たぞ!」
叫び声はうねる大蛇の腹の中で反響する。遥か彼方から、革製の軍靴が近づく。やがて米粒大の軍勢が、その影を地平線の上に現すと、彼らは長弓や弩を大空に目掛けて構える。半目は長弓を放るような低い姿勢のまま、鉄兜は弩を最も射程の出る角度に保ちながら、一矢を弦の上に乗せる。魔術師達が地下で動き始めたことに、口を引き結び、戦士たちは地獄の訪れに覚悟を決めた。
大蛇を揺する軍靴の音が止まった。暫くの静寂の後、この世のものとは思えない背の高い砲口が、ヴィロング要塞にゆっくりと照準を合わせる。
「今だ!撃て!」
蛇の腹に屈む誰かが叫んだ。戦士たちはいっせいに矢を放つ。天高く飛び上がった矢は、僅かに敵の前線に届かず、高射砲が鈍い音を立てて角度を下ろす。敵の軍靴が止み、彼らは三人組を作り草原の中に身を屈ませ、重い機関銃と弾丸の装備を始める。
鉄兜は身震いした。カペル王国に伝わる四か国戦争、長い平和の時代直前に起こったプロアニアの暴走の時に、機関銃は歴戦のエストーラ騎兵をなぎ倒し、エストーラ、ムスコール大公国の超大国を苦境に追い詰めたという。それが、彼らの眼前についに現れたのである。射程もまるで届かぬ弓や弩ではとても敵わぬ、真っ先にそう思い知らされる。
何より黒い砲塔の際立った不気味さを前に、自分たちはなす術がない。蛇の腹の下にかき集められたのは、時間稼ぎの棄民たちなのである。
「……見捨てられるんだ」
鉄兜が呟く。凄まじい轟音とともに、高射砲から放たれた砲弾が、彼らの頭上を掠めていく。僅かに逸れた照準のお陰で、塹壕の真後ろに弾丸が落ちる。
土埃が舞い上がり、銃後の要塞が姿をくらませた。
「ちゃんと見る。まだ誰も死んでない」
彼らの退路は既に砂塵で阻まれている。鉄兜は唇を噛み、矢を手に取った。
弩が弦を引く機械音が響く。草むらの見えない伏兵たちは、今まさに、機関銃の引き金を引くところかもしれない。高射砲の照準が、ゆっくりとヴィロング要塞へと動き始めた。
刹那の静寂の後、突然地響きが起こる。ある者はバランスを崩し、ある者は武器を落とした。
鉄兜は、腰を低くし、しっかりと敵を見据える。彼の視界の中心にある、背の高い高射砲を中心にして、地面から熱で蕩けたマグマが一気に噴き出した。粘性の強い火山の噴火が起こった時のように、マグマは一気に地表から彼方にある山麓の高さまで噴き出し、地表一面に熱された岩石が降り注ぐ。続けざまに、敵に叩きつけるように、上空から草原に向けて、岩の礫が降り注いだ。
カペル王国は、プロアニアとの苦い戦争を通して、学んだ戦術があった。まず、塹壕を作り、矢の雨で敵の接近を抑制する。そして、地下から穴を掘り、敵を魔術の射程圏内に入れる。塹壕戦の傍らで地下から近接した魔術師達は、敵の最前線に向けて一気に魔法を叩きこむ。
その為には、多くの犠牲の羊を、地上に集めなければならなかった。あたかも戦線の最前線が、地上であるかのように演出するために。
「……おい、これ!勝てるんじゃないか!?」
鉄兜が叫ぶ。つかの間、彼らの左辺にある背の高い草原地帯から、高射砲の発砲音が響いた。
今度の砲弾は彼らの潜む蛇腹を抉り、戦士たちが呻き声をあげて弾丸と砂に圧し潰される。しばらくの静寂の後、黒煙の立ち昇る中央付近から、機関銃の一斉射撃が始まった。砲弾をよけるために身を乗り出したカペルの戦士たちの腕や足、腹、彼方此方から目視もできない速度で鮮血が飛び散る。塹壕に、同志たちの血痕が降る。復讐の掛け声とともに、弓の一斉射撃が始まった。