‐‐1900年春の第一月第一週、カペル王、ペアリス4‐‐
廊下を一周し、エントランスルームでフランツと別れると、フェルディナンドは歴代王の肖像画を一つ一つ鑑賞し始めた。
分厚く塗られた油絵具は、繋ぎに卵白を使われている。ひび割れが目立つが年季を感じさせる、趣のある逸品である。
例の如く、絵画は鑑賞する者の背中に視線を送る。フェルディナンドであっても、絵画は例外なく、動くものに視線を寄越している。
エストーラの情報網である、『ウルトラ』とも呼ばれる機密情報の数々は、こうした数多の絵画から齎される矛盾する情報を収集し、それら複数の絵画から得られる断片情報を、総合的に解析した結果として齎される。皇帝はその自室にある水晶を通して、カペル王国、エストーラ、プロアニア、ムスコール大公国に散りばめられた情報を、ほとんど網羅的に確認できる。
しかし、彼はエストーラが予期できなかったプロアニアの奇襲攻撃の数々があることを知っている。これらの記録漏れについて、彼は既に一つの仮説を立てていた。
‐‐プロアニアには既に情報網が筒抜けとなっており、公開された『会議室』と極秘事項を話し合う『秘密の会議室』が存在するのではないか‐‐
さらに言えば、この秘密の会議室への入室者はごく少数で、重鎮の中ですら情報の共有がなされていないのではないか。そして、共有されていないことによって、情報には二重に鍵が掛けられているのではないか。
しかし、フェルディナンド自身、この仮説に辿り着くこと自体が恐ろしく感じられた。この結論は、プロアニアによって、得られる情報の操作がなされているということを意味する。つまり、フェイクは勿論、プロアニアが国際世論を支配するような事態になるからである。
その点、第二次ブリュージュ戦争の結果は、悲惨ではあったが実りのある結果でもあった。
プロアニアはエストーラ騎兵の情報までを把握している訳ではないと証明されたからである。この僅かな情報網の綻びは、軍事的・技術的にプロアニアに後れを取っているエストーラにとっての唯一の希望であった。
彼は身震いする。彼は皇太孫として、エストーラを守る盾でなければならない。その為には、カペル王国の兵士達全員の命を用いて、戦争の泥沼化を、即ち悲惨な消耗戦を続けなければならないのではないか。カペル王国は戦争の最前線である。彼は既に、『他者の命と引き換えに』身内を守る覚悟を決めるように運命づけられているのである。
しかし、事態はそれほど単純というわけでもない。
(イローナは……)
皇太孫フェルディナンドは、確かにエストーラを守る盾でなければならない。しかし、彼は既に、カペル王国の王太子でもあった。戦争が長期化すれば、カペル王国は当然疲弊を余儀なくされる。仮に国体を維持できたとしても、跡取りとなった彼の手に残るのは、疲労困憊の古い王国である。
その上、既に彼は、カペル王家にも親しみを抱いている。荘厳で趣深い故郷のエストーラと、開放的で華やかなカペル王国、どちらにプロアニアの兵を差し向け、どちらに疲労を押し付けるべきか。その決断をするには、彼はまだ若すぎた。
絵画が不気味な視線を彼に寄越している。とおりかかる者もおらず、視線は全て彼だけに注がれている。耐え難い威圧感に、彼は思わず目を瞑った。
「フェルディナンド、どうしたの?」
「お義母様……」
いつも着慣れているはずの衣装を窮屈そうに着こむアリエノールが、ぎこちない動きで彼に近づく。絵画の視線が僅かに動くのを、彼は彼の全身で覆い隠した。
「いや、えっと。最近、イローナの機嫌が少し悪くて……難しいなって」
アリエノールは彼の隠すような仕草を訝しげに見る。彼自身、まったく後ろめたさが無いと言わけでもない。隠し事をする少年らしく、ぎこちない動作で笑顔を作って見せた。
「えっと。僕にきつく言うとか、そういう事ではないのですが……。その、陛下……お義父様にはちょっと……」
「生理じゃない?」
アリエノールは間髪入れずにあっさりと言い切った。
「生理?」
「年頃になるとね、女性は周期的にしんどい時期があるの。人によって辛さは違うけれど。多分、苛々しているのはそのせいだと思う。気を付けてあげてね」
アリエノールは意外なほど優しく諭すように答えた。個人的な悩みが見透かされなかったことに安堵する反面、フェルディナンドは少し胸が痛んだ。
「具体的にどうすればいいんでしょう?僕にはないので良く分からないんですが……」
「あー……。辛そうにしていたらそっとしておいてあげるとか、あまり部屋を散らかさないとか、兎に角苛々の素を排除してあげるしかないかな……。こればかりは分かり合うのは難しいよ」
「掃除……」
彼は自室を思い出して、思わず胃を摩った。スケッチばかりがあちこちに散らばっており、その中に自分のも彼女のも混ざっているからだ。その仕草を見て、アリエノールはにやつきながら彼に耳打ちする。
「アンリはね、そういうところ全然気が利かないの。なんとなくわかっているみたいなんだけどね」
「ふふっ」
無邪気に励ましながら、細かいところを見過ごしていく義父の姿は容易に想像できた。二人は呆れた笑みを零す。
「そういうわけだから、ちゃんと気を遣うこと。気が利かない男はモテないからね」
アリエノールは満足したように踵を返す。故郷でしていたような、無防備な大股でその場を去っていった。
義母を見送ったフェルディナンドは、ひと先ず直近の悩みから解消しようと、自室へ戻っていく。彼が立ち去ったエントランスに、アリエノールは再び様子を見に戻った。
絵画の視線が僅かに動く。アリエノールは真剣な面持ちで、歴代国王の絵画と視線を合わせた。
「あの年じゃあ、簡単に割り切れないよね……」
高い天井には、天使と神々が舞い踊っていた。