‐‐1900年春の第一月第一週、カペル王国、ペアリス1‐‐
デフィネル宮に差し込む華やかな日の光は、硝子の花瓶を貫通して色とりどりの花に華やぎを与える。机上には常に書類がある王の執務室では、国王代書人のリュカが机に向かい、背中から出された指示通りに文書を書いていた。今朝は雲一つない快晴で、都市の郊外でははしゃぐ農民の声が聞こえそうな空模様であったが、宮殿は酷く鬱蒼とした感情で満たされていた。
リュカも文書を書く間に、国政が芳しくないということを自然と感じ取り、アンリの強面も相まって、強い緊張感がペンに宿った。
「……よって、カペラの花冠を戴く国王の詔に従って、全国民より月五厘の臨時徴税金を収めることを求める。また、満十六歳から二十二歳までの男児について、一年の賦役につくことを要求する。
1900年春の第一月第一週第四日、カペル王国国王、ペアリス公爵、ブローナ公爵、キャッシュレー伯爵、シャングル伯爵、アンリ・ディ・デフィネル」
リュカは流ちょうな筆さばきで勅書を書き終える。アンリが身を乗り出して捺印をすると、庶民出身の代書人は大きく伸びをして息をついた。
「ふぃー、陛下も人が悪いぜ。こんなもん書いたら嫌われちまうよ」
「なに、君の顔も名前もないんだ、大丈夫さ」
アンリは出来栄えを確認しながらいう。採光用の窓からは、遮るもののない光が、とめどなく差し込んでくる。王の強面が影の中で視線を動かすと、装飾品の数々がガタッ、と音を立てて揺れた。
「陛下も苛立ってますね。やはり、あいつですか?」
アンリは大きなため息をつき、頭をかいた。
「……男の風上にも置けない男だよ」
彼はそう言い残して自室を後にする。がたいの良い背中に乗った王者のマントには、歪んだアイリスが散りばめられている。
暫くして、完全な静寂が訪れる。リュカはペンを持ったまま肘をつくと、目を細めて微笑む。町を包み込む太陽のにおいが、焦げた燭台の上に漂っている。
「……さて、ということですが、陛下。いかがなさいますか」
肖像画の瞳が動く。肖像画は黒目だけを動かし、リュカを見つめている。彼が見おろす旋毛が姿勢を戻し、手持ち無沙汰にペンを回し始めた。
「聞いても無駄か。お心を尋ねるならお孫さんに聞くべきだ」
旋毛が持ち上がる。絵画の視線が少し上に動いた。
取り残された代書人が一人で国王の部屋を出ていく。背中には、絵画の視線が貼りついていた。
リュカは室外に出るなり、廊下の壁面を見渡した。
長い歴史の中で、国王就任祝いにと贈られた、数多の王の肖像画。毎年カペラの祝日に、ブリュージュ伯爵から贈られた、収穫前の麦穂畑の様子など、人型の絵が描かれている各種の絵画が、丁寧に黄金の額縁に入れられて保管されている。
半分開いた窓から吹く風に、レースのカーテンが揺れている。ウネッザの裁縫職人が作った、細やかな針裁きをした特注品である。
『贈り物は外交上の重要な手段である』
リュカには政治というものが分からない。彼は単なる庶民の代書人で、右も左も正義も悪も分からない。一つ言えるとするならば、彼は乙女の淡い恋心から、希代の詐欺師の広告まで請け負う、文字を書けないものの味方である。それはアンリ王さえ同じであって、彼にとっての敵がいるとすれば、大事な顧客の敵だけだ。
それ故に、政治というものに、否が応でも敏感になる。しかも大抵は誰かの悪意で、例えば、奇麗な額縁で飾られた、祝辞代わりの絵画であったりする。
リュカは頬が罅割れた古い絵画を睨みつける。絵画は静かに、リュカに視線を送っている。
「薄気味が悪い、何が目的だ。お犬の大将さん」
リュカはそう言うと、絵画の罅を硝子越しに撫でる。彼らは動じず表情も動かず、ただ瞳だけが爛々と輝いている。
「これ、リュカ。何をしているのだ」
ブリュージュから流れてきた、腰抜け男の間抜けな声が響いた。リュカはそっと絵画から手を離すと、腰抜け男に視線を送り、作り笑いで答えて見せた。
「いやぁ、庶民には自分の顔を残せませんな、伯爵閣下」
レースのカーテンがふわりと膨らむ。腰抜け男は眉を顰める。代書人は不敵な笑みを浮かべたまま、颯爽と立ち去って行った。