‐‐●1899年冬の第二月第三週、エストーラ、ブリュージュ4‐‐
「貴方の轡を嵌めた姿は、前にも見たような気がしますね」
第二歩兵連隊の隊長は、マリーを一瞥して呟いた。対する夫人は、以前のような覇気はなく、意気消沈した様子で、大人しく隊長を見つめている。
彼は彼女の瞳を覗き込み、光がないことを確認すると、兵士を一人指で呼び寄せ、彼女に視線を向けたまま耳打ちをする。兵士が無表情のまま部屋出ていくと、彼は紙とペンを取り出して、彼女の前に置いた。
マリーは不思議そうに紙を見おろす。隊長は掌を上に向けて、白紙の紙の上を指した。
「ご自由に、思いの丈を綴って下さい。以前申し上げた通り、我々は貴女を憎んではおらず、また、憎むにしても同情はしているのです。ですから、思い思いの暴言をお書きください」
マリーは静かに筆を執り、様々な出来事について記載し始めた。夫の裏切りも含め、余すことなく世界への恨み言を綴る。隊長は眉を顰めながら、一文一文に対して頷いた。
マリーが紙一杯の恨み言を書き終えると、ペンを紙の上に放り投げ、目を覆って泣き始める。轡と手の間から零れる涙の雨が、インクを滲ませる。ペンが紙の上を転がると、滲んだ涙の上を、汚れを付け、文字の上に黒い点線が引かれた。
先ほど部屋を出た兵士が戻ってくる。彼はマリーの轡を外し、コーヒーとケーキを机に置いた。
硝煙のにおいが館に漂う。邸宅の外では、血糊が付いた壁面に、プロアニア兵の遺体が寄りかかっていた。その周囲を飛ぶ蠅の羽音が、嗚咽と共鳴し、高い空の彼方へと響いている。
嫌味なほどの快晴が、真っ青な海の上に、点々と漂う集る蠅たちを見おろす。
「我が国では、嫌なことはカフェインで飲み込むものです。いずれ排泄されると信じて、ね」
連隊長は諦観に満ちた笑顔を零し、「さ……」とマリーにコーヒーを促す。書面はすっかり水浸しになり、最早何が書かれていたのかも判然としない。
「あああああああああああぁ……おっ、おっ、おっ……」
マリーは恨み言を抱き込んで大声をあげて泣いた。机上のコーヒーが激しく揺れ、ケーキが傾いて倒れる。マリーの着たドレスは水浸しになり、素肌を露出した前腕から雫が零れ落ちる。兵士はフォークを使って、静かにケーキの位置を元に戻した。
「昼下がりに優雅なひと時を過ごすことは叶いませんが、私たちは貴女を無碍に扱うことは致しません。武器を重ね合い、戦いを交わしたことで、私は貴女が感じた孤独や不安を共有しました。背筋が凍るような、心許ない装備での息の詰まる戦い。どうして一人で抱え込むことが出来ましょう?我々は同志と共に魂を共有し、いずれ英霊の庭で再会する契りを交わしました。しかし貴女はそうではないのでしょう。貴方がそう望んだとしても、それを受け止める人はなかったでしょう」
町に降り注ぐ光が、表通りの惨状を照らし出す。困窮した子供が木の根を腹に捻じ込む。その木の根を大人の男が奪い取る。女は光のない瞳でプロアニア兵が広場に集めた死体の、いくつかをぼんやりと見つめている。排泄物を零したまま動かなくなった老人は、動かなくなった伴侶が肩にもたれ掛かるのをただ受け止めている。
真冬の極寒の中、食料を回収していくプロアニアの荷馬車から、一人の兵士が小麦粉を盗み取る。僅かなパンが、路地裏の子供達に向けて投げ込まれた。
「持たざる者の慈悲、持つ者の搾取……。この世は地獄、地獄そのもの。農夫姿が憎いのならば、我々はいつでも、ブリュージュを受け容れる準備があります」
目を真っ赤にして呆然とするマリーは、隊長に向けてゆっくりと頷いた。
「貴方、お名前は?」
零れ落ちそうな目玉に、隊長が肩を竦める。
「名乗るほどのものではありません。ただの、プロアニアの戦士ですよ」