‐‐●1899年冬の第二月第三週、エストーラ、ブリュージュ3‐‐
ブリュージュの夜は深まっていく。アルコールに酔いしれたはずのプロアニア兵は、今も森林の中から砲撃を続けている。探索に向かったコボルト騎兵たちも、十分な戦果を報告するには至っていない。
ブリュージュのエストーラ、カペラとの連合軍は、プロアニア兵達の恐らく斥候と目される兵士を捕らえることは出来たが、森林内部の本営を発見するには至っていなかった。フランツはコボルト騎兵の隊長を伯爵邸に招き入れた。
彼は隊長に地図を見せ、十分な兵士が駐屯できる森林内部の広場を指示し、コボルト騎兵に共有、確認させるように促した。隊長は素直にこれを受け入れると、足早に斥候任務へと戻っていく。
フランツはその背中を見送りながら、広げた地図を見おろして深い溜息を吐いた。
盤上には、ほんのわずかな木の間にも印が示されている。市内の混乱は今のところ穏やかだが、それでも人々が地下室に潜る状況に変わりはない。彼は百戦錬磨のカペル的な騎士ではないし、特異な技は持つが戦闘向きの魔術師でもない。ブリュージュの魔術師が間欠泉を噴き上げるたびに、彼は砲撃が邸宅に及ばないかと飛び上がって怯える始末である。
「貴方、城壁は!」
マリーは慌てて駆け下りてくる。彼女が従える魔術師達は、今も間断なく郊外の水源を暴発させているらしい。
「今のところは一部損壊だが、プロアニア兵がこちらに来るのも時間の問題だろう」
「なら貴方も前線で戦って、ブリュージュを守ってください!」
マリーの手には杖が握られていた。フランツは杖を一瞥し、剣の柄を構いながら答える。
「一人二人で何ができる?」
彼は鞘ごと剣を地面に放った。部屋に石と金属の擦れる音が響く。高い音を立てた騎士の誇りは、くるくると旋回しながら地面を滑ると、壁にぶつかり再び悲鳴を上げた。
「は?」
続けて、フランツは鎧を脱ぎ始める。マリーは両手で杖を握ったまま呆然としている。
森からの砲弾が別の城壁を破壊する。瓦礫が雪崩落ちるよりも早く、彼は農民服に着替えてしまった。
「君が逃げないのは勝手だが、それでは命が幾つあっても足りないよ」
彼は簡素な帽子を被ると、早足に部屋を飛び出していく。我に返ったマリーは、杖を叩きつけて激昂し、階段を駆け上っていった。
「何としてもブリュージュを死守しなさい!何としても森に潜んだ鼠を追い出して!」
彼女の叫び声に呼応するように、城壁の外で無差別に間欠泉が噴き出した。以前と比べれば動きの遅いプロアニア兵達だが、森から飛び出してくるのは狼の命乞いではなく、真っ黒な鉄球の礫である。砂煙が市壁周辺に巻き起こり、次の瞬間には真っ赤な閃光となって炸裂する。そのたびに、マリーの脳裏には、忘れがたい屈辱の記憶が想起させられた。
伝令兵が先程まで彼女がいた部屋に駆け込んだかと思うと、鎧を見て即座に階上へと駆け上ってくる。魔術師と共に窓の外に魔法を放つマリーを見つけると、伝令兵は声を張り上げて叫んだ。
「マリー様、市内へプロアニア兵が進軍、兵数は前回の3倍はいます!」
マリーは一瞬伝令兵の方に振り返る。涙を一杯に貯めた彼女の眼は真っ赤で、眉間の皺は谷底よりも深い黒色をしていた。
「城壁がもうもたない!貴方は市民の避難を優先して!」
「はっ!」
伝令兵は脱ぎ捨てられた鎧に見向きもせずに、階段を駆け下りていく。無情な砲弾が、森の中で発射点を右往左往させながら、城壁をまんべんなく破壊していく。エストーラ騎兵が穴埋めをした城壁の隙間に対して、茂みの中から機関銃が連射される。騎兵たちが崩れ落ちると、小銃を携えたプロアニア兵達が列をなして都市へと突撃する。
静まり返った町は鳴りやまない銃声と城壁の崩壊する音で満たされていく。間欠泉の噴き出す音もまた、それに従って伯爵邸へと近づいてくる。マリーは狂乱と怒りを込めて、プロアニア兵目掛けて呪いをかけ続けた。噴き出す間欠泉の数だけ、美しい町並みは3年前と同じように瓦礫の道へと変貌していく。
傾いた月が物憂げに森へ向けて沈んでいく。夜明けまでには、城壁は歯抜けというよりは元から記念柱であったかのように細く弱弱しくなり、時間と共に立て続けに崩落する。その砂塵と無骨な石畳の隙間に手足をかけて、幻覚を見たはずのプロアニア兵が跨いでいく。彼らは夜の過ぎるよりも迅速に、一気に市内へと流れ込んでいった。