‐‐●1899年冬の第二月第三週、エストーラ、ブリュージュ2‐‐
兵士達が城壁の周辺と上部に大量に集まっている。既にトレシュビットも臨戦態勢を整え、カタパルトが続々と外の森に向けて石を放り投げる。今度の進軍は、プロアニアの布陣よりも素早くブリュージュの装備が整っていた。
「さすがは皇帝陛下の軽騎兵。目ざとい斥候としては最高峰だ」
フランツは古い時代の重装備で、城壁内部の詰所から外部の様子を確認する。彼は兵士からの報告を受けながら、剣を鞘から抜く。そのまま剣を優雅に自分の膝裏に沿うように通すと、微かな声で呪文を唱え始めた。
「ドーミネ、デミウス。フリゼーレ、デフェンダ。ホスティス、ダーラ、リコリス。 アス、ネズィーコ、リコリス。アス、ヴェネティク、ヴェル、アス、 マルドゥーカ」
兵士が顔を赤くしてぐらつくと、フランツは彼を往復びんたで叩き起こし、外の様子を見せる。彼と同じように動きの鈍くなったプロアニア兵達が、驢馬に跨るコボルト騎兵らによって弾丸を浴びせられている。
「近くでやりすぎた私も悪いが、少々抗体が無さすぎだ。アルコールは控えることだな」
兵士は慌てて謝罪をすると、報告を再開する。フランツは重ねて似たような文言を唱えながら、報告を逐一聞いていた。
彼らからは、プロアニア軍の姿は殆ど視認できない。小さな部隊が通りかかっただけなのか、未だ森の中に潜んでいるのかは、城壁の中にいる限り判然としなかった。
「まぁ、そろそろ酔いも回ったところだろう」
フランツがそう呟くと、真っ赤な顔をした兵士が再び体をふらつかせる。彼は再び兵士を叩き起こすと、上機嫌な様子でその場を後にした。
対象者の体内に直接アルコールを浴びせるという一風変わった魔術のお陰で、フランツは戦闘も交渉も自分の望むままに進めることが出来る。彼が交渉に直接赴くことが多いのも、こうした特有の魔術のお陰である。前回の侵攻の際にはこれが災いしたが、その次は都合よくいくはずもない。彼はそう確信しており、実際に、敵は沈静化した。
「お見事です、フランツ閣下」
「後はコボルト騎兵どもに任せておけばよいか?」
彼は伯爵邸までの崩れた道を悠々と歩いていく。先程の伝令兵はすぐそばに控えたまま、彼に返答を返した。
「おそらく問題はないかと」
「よろしい。君たちも油断だけはしないように」
フランツが優雅に武器を収める。彼は暑そうに兜を脱ぎ、長い髪を払って汗を拭った。
「はっ」
伝令兵が前線へ戻ろうとした瞬間、大きな発射音と共に、森林の奥から巨大な砲弾が天高くへと現れた。砲弾は弧を描きながら月をすっかり覆い隠すと、そのまま城壁へと曲線を描いて落下した。
修復されたばかりの城壁の一部が、凄まじい音を立てて崩落する。フランツは兜を被り直し、慌てて現場へと向かった。
粉塵が巻き上がる壁越しに、兵士の姿は見られない。フランツは小声で呪文を唱えながら、恐る恐る粉塵へと近づいた。剥き出しになった森林から、大量の鳥が飛び立ち、空の色を鮮やかに変える。兵士の小さな呻き声に足を止めたフランツは、城壁にぴったりと張り付いて、伝令兵に向けて囁いた。
「直ぐに兵器をこちらに動かせ。西の守りを一部こっちに寄越せばいい」
「はっ」
兵士は再び緩やかな傾斜を駆け上っていく。粉塵が収まり始めて露わになる深い森林を見つめながら、フランツは身を竦ませて踵を返した。
「リコリス、ドーミネス……リコリス、デミウス……」
一人はぐれたプロアニア兵が、ふらつきながら城壁の壁を越えようとする。すかさず森から現れた犬の顔をした騎兵たちによって、彼は袋叩きにされた。