‐‐●1899年冬の第二月第三週、エストーラ、ブリュージュ1‐‐
間欠泉が噴き出した瓦礫の跡、弾痕の残った半壊の建物など、復旧のめどが全く立たないままで、ブリュージュは冬の豪雪に直面した。背の高い塔の上から滑り落ちる雪の礫が、町の至る所に固められている。空は深い鼠色で、漂う冬の鋭いにおいが、雪かきをする人々の息を白く染め上げた。
マリーは暖炉の中にくべられた薪が弾ける音に合わせて、凍てつく窓枠に溜息を零した。
宮中行事の幾つかも放棄しなければならない中で、彼女は雪の中を歩く武装したカペル魔導兵達を不安げに見つめていた。
兵士は長い杖と不格好な鎖帷子の下に、なめし皮の丈夫な服を着こみ、深い雪の上に足跡を残していく。すれ違う市民が彼らに道を譲ると、兵士たちは礼も言わずに通り抜けていった。
「カペル王国の兵士がブリュージュを闊歩するのは、実に二百年ぶりだね」
「貴方……。えぇ、そうね……」
マリーが振り返ると、彼女の夫であるブリュージュ伯爵フランツ・フォン・ブリュージュが、湯気の立つコップを二つ持ちながら立っていた。彼は暖炉の近くに椅子を引き寄せて腰かけると、コップを向かい合う形で机に置いた。
オレンジ色の炎が彼の半身を赤く照らす。マリーは窓に息を一つ吹き付けると、夫と向かい合うように椅子に腰かけた。
「なかなか緊張するものだな」
フランツは一口湯を飲むと、姿勢を崩して呟く。腰に帯びた鞘が窮屈そうに音を立てる。
「そうですね」
彼女も白湯を一口飲むと、コップの底で手を温めたまま水面を見つめた。湯の上に浮かぶ彼女は酷く憔悴していた。
フランツの名を冠するブリュージュ伯爵は、彼の前に一名存在している。富の一族とも呼ばれるブリュージュ伯爵家は、これまでに|フランツフリードリヒ、フォルゴーネなど、伝統的にゲン担ぎとして長男にフの発音を頭文字に付けたがった。それは、この頭文字が、彼らにとっては川と道の交易路、延々と続く果樹園地帯、大穀倉地帯も含めて、古都ブリュージュの繁栄の象徴でもあった。嫁ぎ先の奇妙な決め事は、マリーをひどく困惑させたものである。
暖炉の灯りに当てられた白湯が、僅かに波紋を作る。
「貴方、今のままというわけにはいかないでしょう。どうするおつもりですか?」
彼女の懸念事項はいくつもあった。ブリュージュの主要な交易路は、プロアニア国境を通って初めて意義を持つ。現在は前線の情報をカペル王国に売ることで、実質的な支援を得ているが、それも長く続くものではない。冬を跨いだ飢饉の際もそうだが、現状、ブリュージュは帝国の『お荷物』と化している。カペル王国に売られることも検討に入れて動かなければならない。
もし仮に帝国とカペル王国が友好的なうちに、ブリュージュを販売されたとすれば、今度はカペル王国の習慣に合わせて、王国での地位を確固たるものとするべく動かなければならない。大規模な市場に代わって、年中行事の謝肉祭や神事などによって集客力を集めるといった代替案も必要となるのではないか。彼女には、その第一の足掛かりとして、王との関係を深めることも一考の余地があるように思われた。
「なるようにしかなるまいが、アンリ陛下への挨拶に、クッションとしてフェルディナンド殿下を利用するのはどうか?贈り物を相手に渡すことは難しいが、いい印象だけでも残すことは重要だろう」
フランツは白湯を啜る。返事を待つ間に二回ほど、薪が弾ける音が響いた。
マリーは両足を閉じて、窓側からくる冷気から身を守る。床から伝わる冷気によって、足の指先が特に冷たく、またそれ以外に守るすべもなかった。
「でしたら貴方、カペル王国からもっと兵を寄越すように言って下さいな。最近、背筋が凍るように冷たくて」
マリーは身を震わせて見せる。その時には、結果的に全身を縮こませた姿勢になっていた。
薪が一つ弾ける。男性の低いため息が白い息と共に漏れ出た。
「あの男はなかなか食えなくてな。正直、ヘルムート陛下の時のほうがやりやすいよ」
「先日、ようやく、しかも時代遅れの騎兵部隊を寄越しただけなのに、ですか?」
「そう邪険にするな。陛下もご多忙なのだ。政治がいつもうまくいくわけではない」
「それはそうですが……。貴方も遠からずの血縁でしょう、少しは甲斐性のあるところを見せて下さいな」
フランツは白湯を口に運ぶ。マリーには、その様子が危機感の欠如を意味しているように思えた。彼女の中で夫への怒りの感情が徐々に湧き出し始める。
いよいよ彼女が怒鳴るか怒鳴らないかといったところで、城壁の外側から爆音が響いた。
「何事だ!」
フランツが叫ぶと、犬鷲の小さな旗を提げた伝令兵が室内に飛び込んできた。
「ご報告いたします!エストーラのコボルト騎兵小隊二隊が、プロアニアの部隊を近郊で発見、警告に対して武器を構えたため、即座に交戦を開始いたしました!」
兵士は息を切らせて、顔を真っ青にしている。ブリュージュ伯爵とその夫人もまた、彼と同じ顔色になった。
フランツは直ぐにフルフェイス・メットを被り、肩を怒らせながら部屋を飛び出す。マリーも慌てて伯爵用の長杖を鷲掴みにし、自らの思いつく限りの呪文を呟き始めた。