‐‐◯1899年冬の第二月第一週、エストーラ、ベルクート宮2‐‐
ノースタットの夜は篝火の灯りで常に明るい。街路に設けられた各種の法陣術のお陰で、これらは夏の日没の時間に合わせて、自動的に灯るようになっている。
ガス灯と比べれば明かりも安定せず、燃料の交換に地方官僚が駆り出されるなど管理は一苦労だが、入念に準備を整えた後には、浮かび上がる赤い炎が町に彩りを添えてくれる。
大理石と黄金で作られた疫病記念柱のカペラ神が手に持つ篝火などは特に見事で、芸術の都に相応しく、麗しく艶やかな石像が闇の中に浮かび上がる。
廷臣唯一の商家出身者にして、ウネッザ出身者であるベリザリオ・デ・コンタリーニは、闇の中で疫病記念柱が浮かび上がる様を見つめながら、一時の閑居を楽しんでいた。
「ベリザリオ様」
窓を眺める長身が振り返る。赤紫の縁取りが縫い込まれた白のトーガが衣擦れの音を立てた。
「これは、これは。アインファクス様。今宵は月が見事ですよ」
アインファクスは異邦人の装いをしたべリザリオの傍まで、静かに歩み寄る。彼は机の上を一瞥し、こまめに記録された帳簿や日記が閉じているのを確かめた。
「今日の日課は終わったようですね」
ベリザリオが頷く。見事に織られたレースが、月明かりに花弁の透かしを浮かび上がらせる。壁際には怪物のような蛸が描かれた古い素焼きの壺が飾られ、丸い板で蓋をされている。その上には、模造宝石の見本が、透明な硝子ケースの中に入れられて並んでいる。彼は腰の後ろで手を組み、いたずらっぽく首を傾げて見せた。
「商売人として大事なことですので」
アインファクスは咳払いをする。彼が怪訝そうに眉間に皺を寄せていると、べリザリオは彼の意を察して、本題に移るように手で促した。
「率直に伺います。貴方は海軍大臣として、プロアニアが起こすであろう今後の騒動について、どう対応するおつもりですか」
農務大臣であるアインファクスは、軍人出身者ではない。彼は実際に専門家が、どのような対応を取るべきと考えているのかを知りたいと願っていた。
そして、この海の男に対して、その意思を伝えるべきだとも考えていたのである。
ベリザリオは、エストーラの廷臣の中でも群を抜いて長身である。皇帝とは頭一つ分の違いがある。強面のアンリのことも、文字通り見おろすことが出来る。しかし、細い薬指に指輪を付け、鉄兜の代わりに縁なし帽子を被った彼は、見るからに軍人ではない。生い立ちを知らないわけではないアインファクスであっても、その立ち振る舞いと地位には違和感を覚えざるを得なかった。
「ああ、わかりますよ。アインファクス様は私が商家の出身であり、軍人でないことをご案じなのでしょう。ごもっともな不安です。お答え致しましょう」
コンタリーニ家の当主は優雅に身をくねらせて、作業机に向かい合っていた木製の椅子を窓際に寄せて腰かける。執筆用の筆の先には、今まさにインクをふき取った跡が残っている。
「畢竟、プロアニアの求めるところは、『君たちは黙って見ておきなさい。私達のカペル侵攻を邪魔しないでおくれ』ということでしょう。私にとっては、取引相手がカペルの貴族からプロアニアの資本家に代わるだけです。ですから強化すべきところは、海軍ではなく陸軍であり、私は海軍大臣ではなく海運大臣となるべきでしょう」
「それは責任逃れではないですか?貴方は海軍の長だ。プロアニアに抵抗できる海軍を作り、国家を守るために使うべきではないですか?」
月光はベリザリオの横顔を照らしている。ごつごつとした頬骨の浮き出した彫りの深い顔に、明暗がくっきりと分かれて見える。
その口元は穏やかに弧を描き、目は本土人を試すような意地悪な形をしていた。
「お言葉ですが、エストーラの海は殆どが内海。即ち海軍は、沿岸部の国境警備が主な任務となります。プロアニアが大規模な攻勢をかけてくるとすれば……ウネッザ経由の交易路を断つ時くらいでしょう。つまり、必要なのは轟沈しない程度の手堅い巡洋艦で、決戦級の戦艦ではありません。内海は我々ウネッザ人の庭、安全だけは気にかけておきますよ」
「では、戦火を弱める気はさらさらないということですか?」
際立って高い鼻が僅かに上を向く。深い彫りが作る明暗が少し上へと動いた。
アインファクスは月光に輝く白眼に恐怖を覚えた。その輝きは狩人のそれに近い。息を殺して獲物を仕留める狼が、喉仏を噛む際のそれである。
「少し違いますね」
ベリザリオは一拍おいて、今度は僅かに俯く。そして、癖の付いた毛を指で伸ばしながら唸りだした。彼は表情の強張ったアインファクスを一瞥すると、再び首を持ち上げて、飄々と答えた。
「……まぁ、貴方には話しても良いでしょう。くれぐれもご内密にして頂きたいが、実はわたくし、カペル王国と極秘の共同研究をしておりまして」
「陛下はご存じで?」
海の将は首を横に振る。彼は商売をするときのような、作られた笑みで続ける。
「プロアニアが唯一、自在に動くことのできなかった場所をご存じですかね?」
アインファクスは首を横に振る。椅子に腰かけた男は、天井を指し示した。アインファクスは思わず眉を顰める。
「カペル王国の技術力と我が国の技術力で、そのようなことが可能か?とお考えのようですね。難しいでしょうが、理屈さえ見えてしまえば造作もないことです。つまりは、巨大な風船を飛ばすようなものですから。問題は動力ですが、我が国とカペル王国では使えるものが違う。こちらは少し苦戦しそうですかね」
ベリザリオは苦笑交じりで言う。彼が帳簿に手を伸ばすと、アインファクスのほうが手で断りを入れた。
「貴方を信用することにしましょう。くれぐれも、粗相のないように」
「有難うございます。是非とも、ご内密に」
アインファクスは「それでは、良い夜を」と伝えると、そのまま踵を返し、部屋を後にする。月光を背景に手を振ったべリザリオは、仕切り直して窓の外を眺めた。
「なに。物流に使えるものには金を使いますよ、我々は」
月光が地上に降り注ぐ。闇が深まった夜の空に、篝火の弾ける音が高く響いていた。