‐‐◯1899年冬の第二月第一週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
長い山脈のトンネルを抜けて、北へ北へと進む間に、陛下の心境には自然と変化が訪れたに違いありません。煤煙に咳き込む人々は前だけを見つめ、食糧配給所に押し寄せた人々は紙切れを片手に痩せ衰えた腕を差し出しています。エストーラでは今も、オルケストラ劇場での若者たちによる催しが開催されているようです。
ゲンテンブルクの低い空を見上げながら、陛下は銀製の杖で地面を小突きます。少しばかり体重が戻った陛下は、口元をハンカチで覆い、バラックの宮殿へ向けて歩き出しました。
周囲の視線は我々に対してあまりにも冷たいものでした。冷笑的というよりは攻撃的であり、市民の誰もが陛下を刺し殺そうと画策しているかのようです。
この僅かな十数歩の間に、一体どれほど陛下の身を危険にさらしたでしょうか?物憂げな表情の陛下は、漂う煤煙を杖で払うようにしながら、一歩ずつゆっくりと歩いていきます。
「歓迎されていないようだね……」
「陛下、お気になさらず。昔と違いありませんよ」
陛下は頷き、バラックの宮殿の扉へと手を掛けます。警備兵が構えた銃の鋭い金属音が、自然と喉の奥に酸を作ります。私は、陛下の背中を摩りながら、宮殿の中へとエスコートしました。ガス灯の明るい光が灯る宮殿は、異様なほど光り輝いて見えました。
陛下はまず、歴代辺境伯の絵画と向かい合いながら、暫くそれと見つめ合います。宮殿の至る所にある、エストーラ皇帝からの叙勲祝いの肖像画の数々は、時に陛下と視線を合わせては、すぐに視線を離すのを繰り返していました。
陛下はゆっくりと杖をつきながら、絵画を鑑賞されます。曰く、陛下にとって、この行動は非常に重要なことなのだそうです。
暫くそうして絵画を鑑賞された陛下は、ようやく案内された会議室へと赴きます。四か国協定が結ばれた歴史ある会議室は、バラックの宮殿と呼ばれる外装には凡そ似つかわしくない、絢爛な装飾を抱えています。
陛下は鎧が立つ右手の壁際に、時間をかけて腰を掛けられます。その向かいには、時折視線をこちらに寄越す贈り物の絵画が、やはりいくつかございました。
私は陛下の傍らに立ち、見事な装飾を見回します。壁に掛けられた絵画こそ、我が国の芸術家の作品が殆どでしたが、壁を覆う奔放な壁紙と金銀細工は、プロアニアらしい画一性のある図形の見事な装飾でした。角や円が繊細というよりも丁寧に削り出されたこうした装飾品の数々は、ゲンテンブルクの職人の技術力の高さを知らしめているようです。
視線を動かせば、鎧の奥に古い時代に流行した宗教画の類が描かれています。大工の神ダイアロスが、夜の湖の前で水面を歩く動物を見送る姿が描かれております。
陛下は暫く沈黙したままでじっと絵画を鑑賞しておられましたが、ふと、思い出したようにひとり呟かれます。
「今回の交渉が決裂するという嫌な予感がするのだ。ノア、もしものことがあったらよろしく頼む」
「承知いたしました、陛下」
私は肖像画の目がゆっくりと、陛下の真向かいの席へ動くのを見ました。私は手汗で湿った手で拳を握り、若い君主の横暴な登場を出迎えました。
上機嫌なヴィルヘルムほど、私が嫌うものはありません。ブリュージュ侵攻の一件から、彼の横暴ぶりが陛下をすっかり苦しめているのですから。鉄のカーテンで隔てられた机上には、毒とも薬ともつかぬどす黒い、宛らヘドロのようなコーヒーが置かれました。
「皇帝陛下。実は賠償金について、ご相談がございまして」
ヴィルヘルムはそう言って、黒いコーヒーの中に、角砂糖を5個も放り込みます。溶け切らない砂糖を念入りに混ぜながら、ヴィルヘルムは薄ら笑いでこちらを見つめていました。
「我が国には増額に対応できる貯えがありません。申し訳ございませんが……」
「いやいや、そのようなことではございません。ただ、私共の困窮を乗り越えるために、少しばかりご協力いただきたいと思いましてね」
そう言うと、彼は手を叩き、使用人たちを呼び出します。真っ黒な民族衣装を身に纏った一団は、大切に布で隠された、大量の物を運んできました。
彼が立ち上がり、間近の布に手をかけました。暫くこちらを見つめた後で目を細めた彼は、シルクの布をするりと取り上げます。
それは、王国が歴代の皇帝から賜った、銀製の勲章でありました。
「我が国は生活の合理化を図ってきましたが、そのおかげで高額の物がこうした御下賜品ありません。これらをどうか買い取って頂いて、国庫の足しにしたいと考えているのです」
彼は次々に布を取り除きます。銀の円盾勲章はエストーラ皇帝からの最初の受勲の品、黒ずんだ猟犬勲章は皇帝からの開拓100周年祝いの記念品、犬鷲勲章は帝国の重要な家臣の証、いずれも皇帝から歴代のホーエンハイム家が受け取ってきた名誉ある品でした。
「……それは、貴方方を労うためのものです。買い取ることはできません」
ヴィルヘルムはわざとらしく眉を顰め、大仰な溜息を吐いて見せました。
「陛下。それでは私共は再び何者かから奪わなければなりません。次は北方の民か……或いは海の民か……」
私は熱湯でも被せられた時のように頭に血が上りました。平熱とは思えぬ額には、青筋が出来ていたに違いありません。
誉ある勲章の数々を、まるで中古品のように取り扱う男に、私はつい、激昂してしまったのです。
「失礼ながらあえて申し上げますが、身勝手が過ぎますよ、国王陛下!貴方はそうして被害者になれば良いとお考えのようですが、数々の蛮行は全て、貴殿が失策を積み上げた結果ではありませんか!」
「ノア、やめなさい」
「ヘルムート陛下のお言葉とはいえ、今回ばかりは聞くことが出来ません。いいですか、国王陛下!あなた方の蛮行は正義に悖る行いです。貴方はいたずらに他国の、いいえ自国の民から命を取り上げて、その玉座に養分を集める寄生植物だ。このような馬鹿げた茶番に、我々が屈するとでも思うのか!」
「ノア……」
私が歯を剥き出しにして睨むと、ヴィルヘルムは腰に帯びた拳銃を取り出して弄び始めます。余裕綽々とした様子で、優雅に指を絡ませながら、彼は自らのこめかみに銃口を近づけました。
そして、不敵に笑うのです。
「ここで私がこの勲章を背負って自害したとすれば、その立場は逆転するか?」
「はっ?」
「ひとつ言っておきますが、皇帝陛下。この交渉は我が国の命運をかけた重要な交渉なのです。貴公にも覚えがあるでしょう?例えばハングリア反乱の時……貴公が犬面に頭を下げた時のことなど」
私は開いた口が塞がりませんでした。この男は、自らの主でもある皇帝を、あろうことか侮辱したのです。帝国全土を挙げて報復もやむなしというほどの侮辱でした。私は思わず身を乗り出し、手近にあったスプーンを乱暴に机に叩きつけました。
「ノア。やめなさい。ヴィルヘルム陛下、確かに、私にも覚えがあります。しかし、我らの友であるコボルト達を、犬面などと侮辱するのはやめて頂けないだろうか?彼らとて、大事な臣民だ」
「軍人奴隷も臣民か。随分とおめでたいお方ですね」
彼はそう言うと、唇を歪ませて顎で陛下を差します。
「それで、交渉は成立するのですか?」
陛下は物憂げな瞳で、彼の歪んだ笑みを見上げております。陛下の背後にある古い甲冑が、拳銃の鈍い輝きを睨みつけておりました。
暫く沈黙した後で、陛下は静かに、目を伏せて返答されました。
「少し……時間を頂きたい」
陛下は腰を丸めて立ち上がると、即座に荷物を纏めて部屋を出ていきます。私はヴィルヘルムを睨みつけ、荒い鼻息を一つ零して、陛下に続きます。拳銃を静かに下ろした彼は、口角を持ち上げたまま、空を見つめるようにして佇んでおりました。