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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1899年
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‐‐◯1899年秋の第三月、プロアニア、ケヒルシュタイン2‐‐

 合理化された工場には、細部に至るまで無駄のない作業手順書が与えられていた。従業員の口からは、根っからの文官であるイーゴリにはさっぱり分からない用語が飛び交う。彼は従業員に会釈をし、受付へと向かう。受付の前にはすでに、初老で腰の低い男が不安げに周りを気にしながら待機していた。


「お招きいただきありがとうございます、閣下」


 イーゴリの声に過剰に身をびくつかせた初老の男が顔を持ち上げる。アムンゼン・イスカリオ宰相就任演説の際に見切れ、その上モザイクを掛けられて写真報道された人物、科学相フリッツ・フランシウム子爵であった。


「ああ、イーゴリ殿。お迎えに上がるべきか悩んでいたところです」


 イーゴリの顔を見て安堵した彼は、気さくに握手を交わす。ただ数瞬の出来事だというのに、フリッツは酷い手汗をかいていた。

 イーゴリは指摘することなく、笑顔で首を振る。

 昼食を取ろうと工場を出ようとする従業員が通り過ぎていく。彼らはイーゴリには気づいて振り向いたが、フリッツのことは殆ど無視して通り過ぎていった。


「早速参りましょう。いろいろと工場に工夫を凝らしておりまして……」


 待ち合わせで視察を行うことにしたプロアニア科学相フリッツ・フランシウム子爵は受付に挨拶をすると、ゆったりとした動きで工場内部へと入っていく。イーゴリも再び来た道を戻り、彼の後に続いた。


「イーゴリ殿は調停の件ですっかり有名になりましてね。我が国でも話題になったのですよ」


 イーゴリは苦笑する。政府の要人の前で悪目立ちするというのはいささか居心地が悪い。


「そんな……。閣下こそ、我が国では学会の有名人ではありませんか。また是非、講演の為に足をお運び下さい」


「古い話ですよ。今ではすっかり、名前も忘れられているでしょう?」


 フリッツはからからと笑う。イーゴリは口の端で笑った。

 ケヒルシュタイン化学アカデミーの主任研究員フリッツ・フランシウムの名前は、サンクト・ムスコールブルクの名門ムスコールブルク大学でも未だに知られている。

 彼は、同大学の科学者達が集う研究発表会において、同大学の化学分野の権威による見事な論文報告に対して、控え目に挙手をした。もじもじとしながらする彼の質問は、専門家が度肝を抜くもので、『論文から漏れていた重要な実験の諸条件』に関する指摘によって、論文の取り下げ騒動が起きるほどであった。

 こうした経緯から、ムスコール大公国では未だにフリッツ・フランシウム閣下の名前は良く知られているのだが、一方で、彼がプロアニアの科学相に就任していることを知る者は少ない。

 内向きのこの国でさらに内向的な彼は国内に籠りがちで、同国の伝統によって科学相の名前は極力伏せられることが多いことと合わさって、現在の彼と、新聞に載るチーフ・デザイナーとが同一人物であるという印象を持つ者自体が少ないのである。


 フリッツは工場の至る所にある作業指示書を指さしながら、工場労働制による流れ作業の効果について、細かく説明する。

『お堅い』プロアニア人らしく、作業の中に自分という手間が入ることのないように、従業員たちから一定の距離を取りながらの控え目な解説である。


「そういえば、あの、塗装。素晴らしい光沢でしたが、どのような材料をご利用なのですか?」


 イーゴリが何気なく尋ねると、フリッツは口に人差し指を当てて苦笑する。イーゴリは納得して、黙って頷いた。


 プロアニア王国のことをよく思わない人々は、こうした秘匿体制を特に指摘して、人としての善性を持たない国と指摘することが多い。

 一方で、イーゴリのように彼らと深く関わる北方の民は、彼らが茶目っ気のある真面目な人物であることをよく理解していた。

 そうした彼らの特徴は、工場労働制の中でも非常に顕著に現れる。

 イーゴリが見学をしていると、彼らは作業の手を緩めずに仕事に励むものの、ちらちらと彼に視線を送っては、はにかみがちに笑顔を作るのである。この行動は、工場で作業をするどのチームにも、少なからず見られるものである。

 工場の無駄が少ない生産ラインに人間味は感じられないが、従業員の表情には、どこか愛らしさが混ざっている。イーゴリは、彼らが飢えに苦しむ姿はやはり耐えられないと感じた。二か国が怒るのも無理からぬことではあるが、こうした素朴な国民への憎しみは的外れである。


 工場見学の肝は技術力というよりは高い組織力であったため、フリッツの解説もより組織としてのハンザラントワーゲンについての説明を差し挟むことが多かった。広い工場のコンベア式生産ラインを、彼らは一時間程度で回り切った。


「……以上なのですが。イーゴリ様、何かご質問はおありですか?」


 受付の機能的な雰囲気が、彼らに安堵感を与える。フリッツは笑顔で向き直った。


「では一つ。我が国の研究支援金の出資停止措置について、プロアニア政府はどのようにお考えなのでしょうか」


 フリッツの顔から笑顔が引いていく。彼は手を股間の前で絡ませ、もじもじとしながら、上目遣いにイーゴリを見つめる。それは、アンフェアな状況下で彼がよくする泣き寝入りの姿勢であった。


「我が国は何とか立て直しの目途が立っております。貴国が危難を乗り越えた暁には、是非とも再び我々の手を取ってくれればと、そう考えております」


 イーゴリの視線は自然とフリッツの視線とぶつかった。潤んだ瞳の老人は、恐らく王から相当の怒りを買ったのではないだろうか。肩を窄めた老人の縮こまりようは、イーゴリに同情の念を抱かせた。


「そう言って頂けると幸いです。どうか、両国の発展と共栄が、長く続きますように」


 イーゴリは手を差し出す。フリッツは絡めた手を外し、素早く握手に応じた。

 ケヒルシュタインの硫黄臭が、二人の手と手の隙間を通り抜けていった。


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