‐‐1895年春の第三月第二週、カペル王国、デフィネル宮‐‐2
デフィネル宮の朝は忙しない。王の起床時間である4時に合わせて、使用人や官僚たちが宮廷を駆け回るからである。アリエノールでさえ、決して起床時間が早いほうというわけではない。
とはいえ、執務の準備に取り掛かる彼らが、王妃の部屋の前をとおりかかることはそれほどない。
アリエノールはお付きの侍従一人に軽食を作るように言伝すると、宝飾品をようやく化粧台に戻して、ベッドに腰かけた。
真新しい綿入りのクッションに、高級な羽毛布団の柔らかな感触が、体を受け止める。シーツを軽く撫でればシュル、という滑らかな音を立てる。彼女は一つため息をつくと、壁に描かれた印象的な宗教画に視線を移した。
色鮮やかな衣装を身に纏った美神と、艶めかしい一枚の布だけを身に纏った花の女神カペラが、互いの美を競い合っている。
高名な絵師の手なるこの宗教画は、王妃の寝室に相応しいものとして、彼女が生まれるよりも前に描かれたものである。虚飾の美神はカペラに敗れると、醜い蜘蛛の姿にされてこの地を追放されたといわれる。肉感のある豊満なカペラには、軍神オリエタスが付いている。まだ女神カペラが婚姻の花冠を戴く前の話である。
アリエノールはこの柔らかい布団も、教訓めいた絵画も、部屋のいたるところにある海豚の紋章も、何もかもが嫌いでたまらなかった。できれば彼女は街に繰り出して、職人に色々な技術を聞いて回りたかったし、そうでなくても宮殿で、家臣たちと王国の運営‐‐彼女はとりわけ都市計画に興味があった‐‐を議論したいと思っていた。ナルボヌの頃のように、知らないことを直ぐに調べたり頭を悩ませたりできるのを望んでいた。
ところが、ペアリスの宮殿では、こうした仕事は夫が請け負うのが常で、彼女は静かな部屋で暇を過ごすことで、何とか「出過ぎた商売女」と見下げられないようにしなければならなかった。
侍従が陶磁の皿に切りそろえたバケットと、色鮮やかなベリージャムの小皿を乗せてやってくる。彼女は静かに手を挙げて感謝を表し、机の上に置くように指示をする。重い腰を上げて席に着きなおし、少々贅沢な朝食をとった。
朝日が完全に昇ると、王は会議の合間にアリエノールの部屋を訪問する。わずか数分のことではあるが、それが日課となっていたのだ。
王妃は努めて気丈に彼を迎え入れる。彼女より3つ年下の、27歳の若き王アンリ・ディ・デフィネル、カペル王としてはアンリ3世は、強面の眉を垂らしてアリエノールに手を振る。
「アリエル、寂しくはないかい?」
アンリ王は彼女の微笑に応えて、無邪気にくしゃりと笑う。決して美男子というわけではないが、やんちゃな少年のような愛らしい笑みもこぼすこの王は、長い脚で大股に、后のもとへと歩み寄る。
もっとも、彼もまた、アリエノールが「気を遣わなければいけない」人物であることは、何ら違いないのである。
「陛下、おはようございます。今朝は晴れ模様でしたね」
「いい事だ。鷹狩りにでも出たいが、なかなか時間も取れなくてね」
王はそう言うと、バルコニーへ続く窓を開ける。雲一つない陽気な空が、彼女の眼を痛めつけた。
デフィネル宮の広大な敷地の中では、数人の庭師が花壇の手入れを行っている。生い茂った緑の芝生の数だけ、若いアンリに負担がかかったと思うと、アリエノールは怒りを感じざるを得ない。
「やはり何かあったか?誰に虐められた?侍従か?家臣か?」
アンリは心配そうに彼女の顔を覗き込んでくる。彼女は咄嗟に作り笑いをしたが、アンリは目を瞬かせて見つめるばかりで、譲る気はないらしい。
「あの……。いえ、陛下。私は陛下に、不釣り合いではないかと……。時折そう思うことがあるのです」
アリエノールはそう言って視線を下げる。爽やかな風が開けた窓から吹き込んでくる。
アンリは腹の内を探るように顔を覗き込む。暗い場所から覗き込まれると、この王の強面はますます彫りが深く恐ろしくなった。
しばらく沈黙が続く。庭師がものを動かすために人を呼ぶ声が響いた。
押し黙るアリエノールに負けて、アンリは体を持ち上げる。一度何かを考えこむように顎を摩ると、短い唸り声をあげて、彼女の肩を叩いた。
「何かあるのなら、言ってくれ。私には、まだ君がどういう風なのかわからない」
アンリが15歳の叙任式の時から、彼と彼女は既に婚姻が約束されていた。初めの妊娠が分かった18歳の時に、彼から正式な結婚の申し込みがあり、それからは「腹を探るような」新婚生活が始まった。アリエノールからすれば、この王は親に言われて自分と結婚したようなもので、それは彼女自身にも同様に言えることであった。
この男が嫌いなわけではないが、窮屈な宮廷生活が耐えられなくなる前に、この男とは離婚しなければならない、彼女はそう思いながらも、牢獄のようなこの部屋で一日を過ごしていた。そして、今がその時ではないかと、ふと、思い至った。
長く筋肉質な足を覆う白いタイツが、ゆっくりと踵を返す。王の正装であるアイリス紋の真っ青なマントが揺れる。光沢のあるハイヒールのロングブーツがかつと音を立てると、アリエノールは彼の前では出したことのないような大声で、それを呼び止めた。
「あの、陛下!」
アンリが振り返る。呼ばれたことを喜ぶような純粋な笑顔で、「ん?」と太い首をかしげて見せた。
「私は、この結婚に愛がないことを知っています。陛下は私とは両親の紹介で、私は父の勧めで、結婚いたしました。つまり私たちには互いに思いあう心がない。果たして、これを神が望まれたでしょうか?」
彼女は喉につかえたものを全て吐き出した。窮屈な宮廷生活に一石を投じるべく、王家の顔に泥を塗る覚悟で捲し立てる。その後の言葉を続けようとすると、アンリはそれを手で止める。大きく低い唸り声の後、彼は納得したようにうなずいた。
「私は、この結婚に愛というものがないことを否定はしない。二人はいわば母国語の違う相手同士だろう。だが、そもそも、愛というものは初めからあるものでもないだろう」
「……は?」
「うーん、つまりだね。愛とは関係性が作り上げていくものだ。私は長いこと君の本音を聞けなくて苦労したが、それも私が心を開いてやれなかったからだ。難しいね」
アンリの名を冠する王は、カペル王国に三代もいた。そのすべてに共通するのは、夫婦生活が円満でなかったことだという。
アンリは顎を摩り、眉間にしわを寄せて考え込んでいたが、やがて白い歯を見せて屈託ない笑みを浮かべた。
「難しいことはわからん!でも、まぁ、いいではないか。もっと喧嘩して、やりたい事を誘い合って、時には遊ぼう、アリエル!」
アリエノールは呆気にとられる。この王は、自分と違う土俵に立っているわけではないのではないか?むしろ、自分と近いところにいるのではないか?長年連れ添って初めて、そう感じたのである。
「陛下も、家臣から離婚を勧められたのではないですか?」
「言われたが考えられないな!私の娘は世界一かわいいから!」
その時彼女は、何か、タガが外れたような音が聞こえた気がした。
アリエノールは思わず腹を抱える。宮廷に甲高い引き笑いが響き渡る。外に控えていた侍従が思わず飛び上がるような、大きく豪快で、凄まじく奇怪な笑い声だ。
「お、お?どうした?変なこと言ったか、私?」
宮廷人がぎょっとするような引き笑いに対して、王は嬉しそうに笑い返す。彼女は笑い収まると、呼吸を整えてから、周囲の目も気にせず、湿った目を袖で軽くぬぐった。
「いやぁ、あなたと結婚してよかったなぁ、って思って」
侍従が慌ててアンリを呼びに来る。ようやく落ち着いたところで、アンリは大きな手を挙げて彼女と別れを告げる。アリエノールも手を振って、仲睦まじい夫婦のように応じた。