‐‐◯1899年秋の第三月、プロアニア、ケヒルシュタイン‐‐
首都と北端の港町、ケヒルシュタインまでを地上で繋ぐ唯一の高速幹線道路、『メトロポリタン』が遂に開通するとき、安全ヘルメットとオーバーオールに身を包んだ人々は、国営自動車会社『ハンザラントワーゲン』のワッペンが輝く御用車両がケヒルシュタインを出発するのを、目を赤くして見送っていた。
標高の高い鉱山と港が隣接するケヒルシュタインには、長らくムスコール大公国との主要な交易路となっていた。北方で満載された地下資源は海を渡りこの場所へとたどり着くと、国際交易市場で取引されてプロアニア各地へ輸送される。今は閑散としているが、この交易市場がプロアニアの技術を支えているといっても過言ではなかった。
つい先日まで、交易市場と国民居住区との間に背の高い城壁が設けられていた。この城壁は技術の流出を恐れるプロアニアの秘匿主義体制を象徴する建物であったが、今はその上をメトロポリタンが貫通している。
懐かしい苔むした城壁のことを思いながら、調査官であったイーゴリは整備された高速道路を囲む労働者たちの晴れやかな表情を眺めていた。
ケヒルシュタインに充満する潮と硫黄のにおいは、町に災いよりも活気を与えている。市場も近代化し、ゲンテンブルクにあるコーヒーハウスのミニチュア版が立ち並ぶさまに、プロアニア経済のV字回復が現れており、彼は心底驚かされた。
冬将軍がプロアニアへ与えた余波は他国との比ではない。技術支援と技術開発の成果物のいずれをも輸出していた国が突然まき直し政策を始め、梯子を外したのだから当然である。民衆は労働の終わりまでに寝食を全うできたことをまさしく奇跡だと思っているだろう。そして、イーゴリもまた、それはまさしく奇跡というほかないと考えていた。
紙煙草を燻らせて道路の脇を歩く。労働者たちは最後の給金を手に、次の就職先へと向かっていく。上向きだした経済の回復速度は、およそムスコール大公国の比ではない。道路に敷かれた真新しいアスファルトのにおいが、鉱山から漏れ出す硫黄のにおいと重なり、思わず顔を顰める。彼が後ろを通り過ぎる時に、労働者たちの汗臭さもまた、こうした不快感に拍車をかけた。
タオルをかけ、スケールポケットに手を突っ込んだ男たちが、互いを労うために煙草を差し出しあう。それはリレーのように仲間内で回されて、笑顔の彼らが一服ののちに天へ上る煙を見上げている。イーゴリは長い間張りつめた空気のあった彼らの表情が緩んだ様子に、思わず笑みを零した。
中央道に沿ってしばらく進み、分かれ道で鉱山の連なる地帯へと向かっていく。特別物価の高い炭鉱地帯の隙間には、二束三文で売り飛ばされる平地が幾つもある。遠景には古い機械ごと放置されたままの廃炭鉱がいくつか映る。土砂崩れでいびつな変形をしたそれらの旧参道には、土砂に埋められて錆び付いた線路が点在していた。
イーゴリはそうして数十分歩くと、開けた土地で立ち止まる。真新しい駐車場には大量の画一化された車両が並び、景気の上向きによって多少の余裕を得られた中産市民たちが車の周りを一周している。彼らは笑顔で輝く車体を軽くなぞりながら、取引相手の公務員に対して金額の相談をしている。
「ムスコールブルクではとても作れないな……」
イーゴリは改めて、プロアニアに遠く及ばない祖国の技術力に焦りを感じた。立ち止まり、高度に画一化された軽車両の説明に耳を傾ける。車両の燃費は自国の最新式自動車の3分の2以下、車両の軽量化にも20%以上の差がある。価格は耳を疑うほどの安さで、塗装のきめ細かさも比較にならない。顔も角ばっておらず、突き出した配管もなくスタイリッシュで、強化ゴムの強度も圧倒的である。
彼は思わず顔を持ち上げる。視線の先には、冬将軍過ぎ去りし後に聳え立つ、国章付きの工場がある。工場の入り口には、「ハンザラントワーゲン」の表札が、高らかに掲げられていた。