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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1899年
47/361

‐‐1899年春の第二月、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐

 長い煙が横薙ぎの風に吹かれて空を覆いつくす。町には黒いドミノマスクを被った、瘦せ衰えた人々が、工場の前で立ち尽くしていた。彼らの首には自分の出自や所属していた組織での在職履歴、家族構成などが書かれ、嘆願の言葉が綴られていた。


 ドミノマスクの男たちの一人が咳き込む。町に降り注ぐ灰の礫で、彼らの帽子は斑模様の灰色に変色していた。

 野良犬が衰えた子供の服を引っ張り、自らの住処へと引き摺ろうとする。光の当たらない路地裏にある仄暗い闇の中には、無数の瞳が爛々と輝いていた。


 焼け焦げたバラックの間を、一台の馬車が通る。目だけが異様に輝く、灰の漂う空気を切って、馬車はバラックの宮殿へと向かっていく。


「間もなくこの御用馬車も廃棄されることとなるだろう」


 燕尾服と蝶ネクタイで着飾った、アムンゼン・イスカリオが呟く。今日の同行人はおらず、貸し切りの車内には彼の杖が席に立てかけられているだけで、答える声も一つとしてなかった。


 馬車の車窓からは代わる代わるに食べかすを集める人や、黒いドミノマスクの男が現れては通り過ぎていく。ゲンテンブルクの中央を走る馬車目掛けて、怒号を発する男も現れた。


 殺風景なバラックの工場群を抜けると、二つの河川に挟まれた島が現れる。島には四つの建物からなる公会堂が建ち、その奥には古い住宅が並び立つ。川を流れるヘドロの耐え難いにおいが、車内まで届き始めた。


 アムンゼンは鼻先に紙煙草を押し当て、においから気を逸らす。軍服で慣れ親しんだニコチン臭が、申し訳程度にヘドロのにおいを緩和した。


 彼は静かに顔を持ち上げる。馬車の天井は、薄い灰色で塗りつぶされていた。


「ムスコール大公国は経済協力を打ち切った。カペル・エストーラは我が国を避けて交易を始めた」


 泣き叫ぶ子供の声が響く。鞭打たれた蚯蚓腫れの足を引き摺って、子供は「どうか仕事を下さい」と泣き叫んでいる。その蚯蚓腫れが、資本家から打たれた傷跡だというのを忘れたかのように。


 アムンゼンは窓の外を一瞥する。汚れた民族衣装(スーツ)の少年が、よれたワイシャツの首筋を隠しながら、項垂れて歩いていく。ヘドロの河川に虚ろな瞳を向けた女が、その中へと吸い込まれそうにふらついた。


「もはやそれしかあるまい。この国を守るために」


 アムンゼンを乗せた馬車は、一気に速度を上げて、バラックの宮殿に踏み入った。



 アムンゼンは一度その雛壇の右端に立ったことがあった。陸軍相就任の際に、玉座を背後にして立ったのである。真後ろで玉座に肘をついた若き王ヴィルヘルムは、アムンゼンの猫背を見おろしながら、不敵な笑みを浮かべていた。

 今、玉座の前に立つこの時、ヴィルヘルムが親しげに手を挙げて挨拶をしてくるなどと、どうして考えることが出来たであろうか。


「やぁ、アムンゼン。晴れ舞台だね」


「陛下。畏れながら、不思議な人事ですね」


 アムンゼンはヴィルヘルムに声を掛けられた途端、背筋をピンと伸ばした。軍人特有の機敏さと言うべきか、その動きは目にもとまらぬほど素早い。

 広い赤絨毯の周囲には、プロアニアの有力な貴族たちが並んでいる。貧相な玉座の前にある、やはり他国と比べて段数の少ない階段では、閣僚たちが顔合わせをしている。

 ほとんどの顔ぶれは変わっておらず、宰相の姿だけがそこから消えていた。胃を摩る科学相とそれを労わる外務相の姿も見られる。


 ガスランプに照らされた赤絨毯の上の閣僚たちの中で、際立って若いアムンゼンは、ヴィルヘルムを堂々と見つめ、返事を待っている。ヴィルヘルムは口を覆い隠して、手の隙間から見えるように口角を持ち上げた。


「内閣は王の輔弼機関だ。君たちや議会には、初めから権限を許す気は無い」


「それは、逃がさないという意味ですか?それとも、信用してくださる、と言う意味ですか?」


「さぁね」


 王は錫杖代わりの拳銃を手で弄びながら玉座へと戻る。赤絨毯の端を示す金襴が、オレンジの灯りに照らされて輝いていた。


 聳え立つ機械時計が定刻を告げると、貴族、閣僚が一斉に持ち場へと戻る。燕尾服の尾を持ち上げながら、アムンゼン・イスカリオは赤絨毯の中央に立った。


「それでは、新宰相のアムンゼン・イスカリオ君。就任演説をお願いします」


 国会の議長が声を張り上げる。普段の物静かな様子に反して、新宰相は腹の底から天井まで響く大きな返事をして、一歩前へと出た。玉座の上で肘をつく王が、目を細めて笑う。


「この度宰相に就任することとなった、アムンゼン・イスカリオです。今後とも、国家の発展の為に邁進してまいります。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 貴族たちの中から疎らな拍手が起こる。その拍手が収まりきる前に、彼は胡坐をかくばかりの烏合の衆たちを、冷ややかな目で見おろして、言葉を続けた。


「我が国は、古くから無駄のない国営を重んじて、発展をしてまいりました。しかし、その実は無駄ばかりです。役に立たぬ議会、おべっかを使うばかりの内閣、そして、頭でっかちの文官たち」


 拍手の音が消え、場が凍り付く。脆弱なオレンジ色のガス灯では、赤絨毯より外まで光が届くことはない。


「今、バラックの宮殿の外には、失業者達が溢れています。城壁に背中を預けて震える貧民達が溢れている。真実を言えば、この世界のどこよりも貧しい国、それがプロアニアです」


 科学相が顎を引き、驚愕に目をひん剥く。視線だけで新宰相のつむじを睨む。玉座で足を組み替える音がすると、迸る汗が目にかかり、彼は耐えかねて強くその目を瞑った。


「我が国は貧しさの中でこうして生き抜いてきました。土地は痩せ、民は辛抱し、研究に勤しんできました。今、大きな危難と思惑が、世界からこの優れた民族を排除しようとしている」


 アムンゼンは無表情の仮面を破り、眉間に皺を寄せ、歯を剥き出しにし、唾を飛ばして叫んだ。


「だがそれは叶わない!我が国は優れた人民により、優れた統治によって貧しさをはねのけてきたのである!だからこそ、私はそれに応え、優れた指導によって国民を導き、陰謀を打ち負かさなければならない!」


 彼は真っすぐに右手を伸ばす。ピンと張った右手の先は、親指、人差し指、小指が立てられ、何者かを指さすように、玉座の前にある写真機へと向けられた。


「全国民に告ぐ!我々は再起する!雌伏の時を乗り越え、私腹を肥やす悪魔たち全てを打ち倒す!起て、国民たちよ!これからの飛躍は全て、我が国の勝利のためにある!」


 凍り付いた議場の外から、わっと歓声が起こる。帽子を投げ、ドミノマスクを放り投げた男たちの蜂起の声が、ゲンテンブルクの都市を覆いつくした。


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