‐‐1899年春の第一月、カペル王国、アビス‐‐
アンリは教皇宮殿の客室で右往左往していた。
宮殿の漂白された部屋の隅から隅までは長く、往復するまでに1分はかかる。彼は壁から壁への往復を、朝から今までずっと続けていた。
彼の頭の中は愛娘イローナのことで一杯だった。この結婚に猛反対した大蔵卿のレノーに嫌がらせをされていないか、心配性の老帝ヘルムートの孫であるフェルディナンドが、果たして彼女を守るだけの器量がある男なのか。もっと言えば、フェルディナンド自体が信用ならない。例えば祖父に甘やかされて育っていて、我儘な男に育っていたら、愛娘に無理やり酷いことをするのではないか。彼は壁から壁へ歩く間、ずっとそんなことばかり繰り返し考えていた。
「アリエルが帰ってきたら帰ろう、すぐ帰ろう。イローナが心配だ、心配だ……」
アビスの空模様は曇りである。不気味などす黒い雲が垂れ込めており、アンリの心をますます煽り立てる。教皇宮殿に使用人代わりとして仕える僧兵達も、アンリの落ち着きない様子を硝子越しに眺めていた。
アビスの街は相変わらず篤信家と強かな乞食たちによって営まれている。僧兵達はのんきに顔を見合わせながら、子煩悩な王があと何往復するのか、賭け事を楽しんでいた。
「ああイローナ、パパは君を思っているよ!お利口で待っているんだよ!」
僧兵は上唇を噛んで笑いを堪える。任務の間に笑うわけにはいくまいという理性と、国王陛下のあまりにも父親らしい子煩悩に呆れと微笑ましさとがないまぜになった感情とがせめぎ合っていた。
「あの人まだああやってるの?」
僧兵に何者かが声をかける。彼らは同僚だと気を抜いて、雑談するときの気さくさで答えた。
「ああ、朝からずっとだ。あと何往復すると思う?」
「そうね、あと2往復くらいかしら」
「そうね……?」
僧兵は振り向くなり顔を真っ青にして後ずさりする。教会に似つかわしくないドレスが彼らの視界に飛び込む。姿勢を正したとたんに上品な香りが彼らの鼻腔をくすぐった。彼らが頭を下げると、つむじの先で宝飾品がざらりと音を立て、扉が無遠慮に開かれた。
「……!アリエル、戻ったのか!」
王の不安顔がぱぁっと明るくなる。白い内装を彩る優美な金細工の家具が輝きを放った。アリエノールは呆れ顔で、近づいてくる彼に手を振る。
「皇帝陛下にも貴方にもいいニュースがあるよ」
アリエノールが言い切る前に、アンリは思い切り彼女を抱きしめた。僧兵が感嘆の吐息を漏らすので、彼女は頬を赤らめて、アンリを突き放した。
「ちょっと、恥ずかしいから……」
「あぁ、すまない。イローナのことが心配で」
アンリが胸の前で手をそわそわと動かしている。アリエノールはじっとりとした目つきで、その様子を見つめていた。
「落ち着いて。誰も食べたりしないでしょ」
「『食べる』だと!あの小僧め、引っ叩いてやる!」
アンリは慌てて部屋を飛び出そうとする。アリエノールが彼の襟を掴んで引き戻した。
「いいから話を聞く!子供のことになると途端に馬鹿になるんだから!」
僧兵が口元を抑えて震えている。白い部屋は曇天に似合わず妙に明るい。アリエノールが襟を引っ張ると、アンリが短い呻き声をあげて、彼女に向き直った。
「そうだった。ブリュージュ支援について、話は纏まったか?」
強面の男が襟を掴まれて華奢な女性に上目遣いを使っている。カペル王国の国王らしい威厳は殆どないが、僧兵も羨む幸福な光景ではあった。
「生憎、ナルボヌってところは支援という言葉が嫌いでね。ブリュージュや皇帝と「取引」をすることになったわ」
「取引……」
アンリは口を半分開けて彼女を見る。彼女は唇を尖らせて、アンリの襟を離した。
「……少しは私の話題を出してもいいのに……」
僧兵が口笛を鳴らす。アリエノールは肩を怒らせて、扉を思い切り閉めたのであった。