‐‐1898年冬の第一月、エストーラ、ベルクート宮2‐‐
陛下が国内での活動に奔走している間に、帝国にはもう一つの動きがありました。それは、嫩葉同盟に関する、カペル王国からの打診によって始まりました。
観光大臣フッサレル様宛の手紙の差出人は、カペル王国の外務卿ヴィルジール・ディ・リオンヌ様でありました。
侍従長として陛下に仕える間中、陛下から離れることのできない私には、彼らのやり取りを逐一詳細に把握することはできかねますが、それでも、陛下へのご報告による断片情報であれば、一つとして聞き漏らすことはございません。
陛下が執務室で勅書の内容の最終確認をしているところに、フッサレル様がノックをする音が響きました。陛下が疲れた声で入室を許可すると、フッサレル様は三つ折りにされた手紙を広げたままで入室されました。
陛下はオオウミガラスの陶製人形が愛らしく座る手前にペンを置き、フッサレル様に向き直ります。静かな息遣いの中に、僅かに高揚感が感じられました。
「カペル王国よりお手紙を頂きました。ウネッザを通しての交易関係を強化しようか、といった旨の内容です」
陛下は手紙を受け取ると、丁寧に上質な手紙を広げます。老眼鏡の位置を整えて、手紙を黙読されました。
私が横から拝読したところ、カペル王国の上級官僚特有の、代書官が書いたらしい丁寧で画一的な文字で以下のように記されておりました。
『親愛なる フッサレル・フォン・ボーヴォルフ様
カペラも欠伸をし、長い居眠りをするこの頃、フッサレル閣下も益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
両国の素晴らしい関係性が一年続き、末永く続くことを願うこの頃ですが、冬将軍の訪れとともに、両国経済にも甚大な被害が広がりつつあります。そこで、貴国との素晴らしい関係性を深めることも願い、両国間の貿易関係を強化するべきではないかと考えて、お手紙を送った次第です。
この度の冬将軍、我が国と貴国だけの被害に留まらず、むしろプロアニアが甚大な被害を被ると推察されます。それ故、両国間の強固な絆は、あの危険極まりない悪魔を打ち負かすことにつながると考えております。そこで、貴国の足元を流れる内海を通じて、強い繋がりを保つことが出来ればと考えております。
詳細は別紙をご確認ください。是非とも、ご一考いただければ幸いです。
貴方の友、 ヴィルジール・ディ・リオンヌより』
陛下はお手紙を下ろし、老眼鏡を外されます。ウミガラスの足元に置かれた老眼鏡が、机上に落ちた埃の一粒を拡大させました。
「物資を安全に運ぶことは両国にとって有益になる。とはいえ、プロアニアの民も飢えている。果たして両国だけが利益を得てよいものだろうか」
陛下は頂き物のコートを見つめながら仰います。ムスコール大公国の毛皮製品は、プロアニアの港町ケヒルシュタインを介して我が国へと輸入されます。ムスコール大公国との経済関係の途絶は、同国の経済に大きな影響を及ぼすことは疑いないことと存じます。
フッサレル様は呆れたように首を横に振ります。
「お言葉ですが、陛下。陛下の慈悲の心は過ぎるところがあります。ブリュージュの一件で、我が国は手痛い被害を被っておるのです。ここは一つ、カペル王国のお誘いを受けてみては如何でしょうか」
「ブリュージュはどうするのだ?見捨てるのか?」
陛下は眉を下ろして尋ねます。フッサレル様は押し黙ってしまいました。
プロアニアとの交易を断ち切ること……それは我が国には不可能ではありません。ムスコール大公国には遠回りの陸路で、カペル王国へはウネッザ経由でナルボヌ、アビスへ至る海路で、それぞれ代用が可能だからです。ですが、これらの交易路は冬季から春季まで、道路が悪くなるか海の天候が荒れやすくなり、安定しないという点が問題となっておりました。そこで、これまでの主要な陸路……プロアニアを経由してブリュージュを経由し、カペル王国へと至る安全で季節を問わずに利用できる交易路を利用することが多かったのです。
そう、この交易路は、ブリュージュに莫大な利益を齎してきました。カペル王国からウネッザを経由するということは、「ブリュージュを見捨てる」ことになるのです。
「……国益を考えることは、間違っているのでしょうか?陛下」
今度は、陛下が沈黙してしまいます。我が国の経済状況は悪化しています。臣民を守ることを第一に考えておられる陛下にとっても、その事態は看過し難い問題であったはずです。
フッサレル様は畳みかけるように続けます。
「陛下のご両親は、現実的な視点をお持ちでしたよ。自らの命を第一に、その他の命を第二に据えておられました。陛下、どうか賢明なご決断を」
陛下はオオウミガラスの陶製人形を一瞥されます。そして、壁面に飾られた梟の絵画を。重苦しい空気が部屋に充満しております。
しかし、このようなときに決断をされるのが、陛下のお仕事なのです。
「フッサレル君、狭量な私を許して欲しい。二度と悲劇を繰り返さぬように、私は臣民を守る決断をする」
陛下は煮え切らない様子で答えられました。フッサレル様もまた、眉間にしわを寄せて深く頭を下げます。大飢饉の際に、我が国の選択がどのような結果を招いたのかが、私の脳裏に浮かびました。
「プロアニアが次に軍事行動を起こすきっかけを与えてしまうかもしれませんよ」
「……そうだな。私は、それも懸念している。しかし、いつかは選択をしなければならないのだ」
陛下は老眼鏡を掛け直し、机に向かわれます。冬の張りつめた空気が、私たちの肌を切ります。おお、神よ。どうかこの地上に地獄が訪れることのないように……。
主な出来事
サンクト・ムスコールブルク株式市場で株価が大暴落(冬将軍事件)
ムスコール大公国、国債を発行しての公国横断鉄道大整備計画を発表
ムスコール大公国からのプロアニアへの経済支援途絶
エストーラ、カペル王国との貿易体制を強化 (シガーレ・ブロック)