‐‐1898年秋の第三月第一週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
プロアニアの民族衣装が町に集うと、それは白い地面と対称になって、人工の石をはめ込んだような見栄えとなる。チェス盤のようにくっきりと白と黒が分かれて見えるときもあれば、ある一か所に白黒の区切りをつけたようにもなる。証券取引所までの道中が前者であるとすれば、同所内は恐らく後者であっただろう。
プロアニアのブリュージュ占領事件は話題にも上らなくなって暫く経つ。初めは食品の高騰による飢えに備えて安定株式を数株分購入することにした人々は、今では、毛皮と原油の隠された雪原を夢見た人々となって、乱暴に株式を買い漁るようになっていた。
良質な株券さえあれば儲かるという虫のよい話は、中産市民に希望を与え、町の外れにある雪原のあちこちが、誰かの投資によって買い取られている。
やはり起床と同時に家を追い出されたレフは、ミルクをたっぷり入れたホットコーヒーをかき混ぜながら、証券取引所へ延びる道を見つめていた。
憂鬱な感情がひと段落し、新首相との関係も随分良好になってはいたものの、外務官として見落とせない事情が、世界で起こっていることは疑いなかった。
カペル王国王女とエストーラ皇太孫の婚姻と嫩葉同盟の成立は、明らかにプロアニアを牽制する意図があり、しかも、ムスコール大公国との密議によって、エストーラは安全保障上二か国から優位に立ちつつある。
国際的な視点で見れば、未だエストーラは主要四か国の中で最も弱い立場にあるが、地理上は険しい山脈地帯か深い森林地帯を通らなればプロアニアから侵攻が出来ないことから、実質的に本土への侵攻は困難であり、エストーラは国境線そのものが要塞と化しつつある。
カペル王国の背後は王家の家系が連なる海洋大国アーカテニアがあるだけで、プロアニアが両国を包囲することは実質的に困難である。仮に有事の際、この二か国がプロアニアに向けて進軍すれば、単一で二正面からの侵攻が可能となり、プロアニアの擁護も困難となろう。
(我が国が安泰のうちに、緊張状態を解かなければ、間違いなく悲劇が起こるぞ……)
ムスコール大公国の文化でもある、与党と野党の足の引っ張り合いと、市民活動家によるデモ活動によって起こる、政府の政治方針の掌返し。もはや一刻の猶予もないというこの状況で、彼はこの、悠長な人々のことを、苦虫を嚙み潰すような表情で思い出した。
こうした活動が社会の混乱を招き続けているのは疑いないことである。彼は多少強硬な手段であっても、与党内閣による政治方針の画一化をすべきではないかと考えていた。
三か国による大規模な戦災のにおいを嗅ぎ取り、レフは自宅で妻に怒鳴られた時のような激しい胃痛に見舞われた。耐え兼ねて首を垂れると、焦げた芳香を放つコーヒーの中に、彼自身の憔悴した表情があった。
証券取引所からスーツの男が飛び出してくる。市内の騒めきが大きくなり、窓越しに自動車が地面を削る音が激しく響き渡る。
レフはコーヒーカップの中に浮く酷い顔色の自分に耐え兼ねて顔を持ち上げた。
まさにその時、町は異様な雰囲気に包まれていた。証券取引所の前には、引きちぎられた新聞紙が舞っている。有力者たちが自慢のエンジン音を鳴らす証券取引所への道には、鞄を持ったまま狼狽える平民たちの姿があった。
深まる秋特有の、降雪が溶けた泥濘の上で、呆然と立ち尽くして白い息を吐く者たちが、新聞紙を片手に途方に暮れている。
この異様な雰囲気に、レフは咄嗟に証券取引所の方を覗き込んだ。窓越しに映るのは、押し寄せる投資家たちが紙切れを放り投げて激昂する姿であった。
「……冗談はよしてくれ!」
レフは小銭を机に放って立ち上がる。喉元に嫌な酸味が上がってくる。逆流する胃液の気持ち悪さに耐えながら、たぽたぽと音を立てる腹を揺らす。
彼は息を切らして、経済の中枢へと飛び込んでいった。白い息に阻まれた目前には、新聞紙の舞い踊る中で、怒号と悲鳴と嘆願が響く、地獄の様相が広がっていた。
証券取引所の前に立った時、彼は確信したのである。「これはまずいことになったぞ」と。
その日のことを、人々は冬将軍事件と呼ぶようになった。安定株と目されたカルロヴィッツ皮革等株式会社や、その他の有力株式の価値が一気に下落し、そうした会社の株主は紙切れを手に持ったまま、泥濘の上で呆けることしか出来なかった。株価下落の予兆に気づき、運よく売り抜けた投資家たちは莫大な財産を得たものの、その後に待っていたのは安定株主として投資活動も行っていた銀行の破産であった。銀行内の口座が閉鎖されると、この莫大な財産も殆どが回収できなくなり、そこまで読み解いてせっせと口座からの引き出しを続けていた者はさすがに少なかった。
瞬きのうちに金を失った人々は、途方に暮れて寒空の下をさ迷い歩き、寒い街の暮らしに慣れた、ゴミ拾いをする貧民たちを見て鳥肌を立てた。自分もこうなるのでは?そうした感情が頭を過ると、暖かい我が家を持っていた中産市民たちは恐怖に駆られ、万引きや、強盗、強姦、傷害の罪を犯すものも現れた。
犯罪率は冬将軍事件を境に激増し、銀行の倒産によって、清算人たちに借金の取り立て請求をされた企業も手持ちの原資産を失い、殆ど無一文となった中小零細の企業へと寒波が拡大していく。
投資家たちは勿論現金を抱え込んで身を震わせ、明日は我が身と空っぽになった銀行から金を引き出すためにコボルト奴隷を走らせた。投資家にとってわずかな金額だけが引き出されると、奴隷たちもまた暴行を受けた。
やがて、混迷を極めるムスコール大公国の市民は、その矛先を政治家へと向けることになる。彼らは普段冷ややかな目で見つめていた活動家達の背中を追って、プラカードを掲げ、垂れ幕を持ち、「パンと仕事」を求めて町を練り歩いた。これを好機と見た野党政治家たちは、この惨状を議会に持ち込み、与党の責任追及を始める。水を得た魚のごとき饒舌に対して、与党がとった行動は、選挙対策の「金のばら撒き」であった。
貰えるものは貰う人々が、市役所や町役場に駆け込み、国家の血税を回収する。はした金にすがる思いで尻尾を振った彼らは、次の食事にも窮する失業者達である。成功体験を得た彼らは、翌日には街に繰り出してプラカードを再び持つのであった。
ようやくこの騒動が落ち着くのは冬の第二月に入ったころで、政府は翌年の予算審議を返上して、より現実的な景気対策へと舵を切りなおした。
宰相シリヴェストールは、公国横断鉄道の老朽化に目を付けて、公国横断鉄道修復公社を立ち上げる。そしてプロアニアへの経済支援も一時中断し、共同研究事業も一旦中止することに決められた。
こうして、何とか危機的状況の打開に舵を切りなおしたムスコール大公国だったが、その代償として、経済大国のつけを件の三か国が支払うことになったのである。