‐‐◯1897年夏の第二月、カペル王国、アビス2‐‐
カペル王国の主要な収入源の一つに、アビス教皇庁を経由した聖務費の徴収がある。古い時代、半身不随のロイ王の治世に、揺らぎ始めた教皇の権威に対抗する形で、カペル王国政府はアビスに対立教皇を擁立した。大量の聖遺物と言う初期投資の膨大さも、四か国戦争で各国から協力の代償や賠償として獲得して、十分な権威をもったアビス教皇は、教皇の非難にも関わらず、名だたる王族たちの『黙認』によって長らく王国内での権威を維持してきた。カペル王国の教会を通じてアビスへ預けられた莫大な寄進料は、王国の財源として重視され、オルクメステスのような対立教皇も、王の協力者として絶大な権威を与えられてきた。
ここで重要なのは、これまでアビス教皇はあくまで各国から「黙認」されることで、その地位を維持してきたという点である。教会の守護者と認知されているエストーラ皇帝はもちろん、正式に教会トップが彼らであるとと認めたことはない。この結婚式は、この歴史的な関係性も合わせて、特別な意味を持つ外交革命であった。
結婚式を終えたオルクメステスは、子供たちにお茶とお菓子を与えて控室へ向かわせると、教皇宮殿の自室に、皇帝と国王を案内した。
「今日はめでたい門出の日です。どうぞ、陛下。極上の精進料理でおもてなし致します」
オルクメステスは豆を挽いて作った肉のような料理や、赤身肉に見立てた白身魚の料理などを揃えて客人にもてなす。彼にとって、こうした形での皇帝の来訪は、暗に『御羊の御座』への勝利を意味していた。
ヘルムートは不思議そうに料理を覗き込み、しばらく眺める。得心した彼は晴れやかな笑みを浮かべて、オルクメステスに向き直った。
「これは面白い。どれも教義に反していない料理なのですね!教会の思慮深さがこもった一皿のようです。有難く頂きます」
ヘルムートはそう言って、ナイフとフォークを手に取る。彼が優雅に料理を口に運ぶ姿を、オルクメステスはリキュールを片手に眺めていた。
咀嚼音のしない上品な食事。エストーラ皇帝の所作一つ一つから、気品高さが滲み出ている。
教皇宮殿には歴代教皇の肖像画が掛けられているが、いずれも横を向いたままで視線を動かさない。皇帝は咀嚼をしながら、これらの絵画を注意深く眺めている。
「猊下、失礼ですが、猊下のご肖像はまだご依頼されていないのですか?」
「ああ、えぇ。お恥ずかしながら、どうにも時間がありませんで。今は画家を探しているところですよ」
ヘルムートはリキュールを一口含み、しばらく転がして彼の言葉を聞く。リキュールの爽やかなにおいが鼻を突き抜けると、これをアルコールの刺激ごと飲み込み、笑顔を作った。
「それはよかった。ささやかながら、贈り物代わりにエストーラの宮廷画家をご紹介しようと思っていたのですよ」
「それは嬉しい!是非ともお願いしたい!」
オルクメステスは手を叩いて喜ぶ。アンリの表情がやや曇ったが、ヘルムートは視線を少し向けただけで、教皇に笑顔を作り直した。
「猊下もきっと気に入るに違いありません。ねぇ、アンリ陛下?」
彼の含みを持った笑みがアンリへと向けられる。内心穏やかでない様子のアンリであったが、取り繕って笑顔を作ると、「えぇ、きっと気に入られると思います」とだけ答えた。
オルクメステスの浮かれ様は凄まじく、その後も教会での貧者への取り組みや寄付金に関する自慢話をつらつらと話し、ヘルムートが褒めそやしてはアンリに同意を求める、と言う会話が続いた。
アンリは冷静にその様子を眺めていた。彼の背中に太陽の光が当たり、衣服が熱を帯びている。ヘルムートの贈り物の真意は判然としないが、嘘を言っているとは考えづらかった。それでも、ヘルムートから肖像画を送られるということが、どのようなリスクがあるのかというのも、アンリは理解していた。
暫く歓談が続く。晴れの日に相応しい鮮やかな衣装の両陛下は、猊下の自慢話を聞いては手を叩いて笑って見せた。
「しかし、まぁ……。ヴィルヘルム陛下には困ったものですな」
猊下は何気なく口走る。皇帝と王の表情が強張った。
「陛下は、ヴィルヘルム陛下を信用なさるのですか?私は信用できませんが」
アンリは眉間にしわを寄せ、拗ねるようにそっぽを向いた。
「信用なりません。あの男はまた仕掛けてくるでしょうから、こうして守りを固めているのです」
アンリが唇を尖らせながら視線をヘルムートに寄越す。彼はためらいがちに目を伏せると、祈るように手を合わせた。
「私は彼の良心を信じたい。ただ、守りは盤石に越したことはありません」
澄んだリキュールのライトレッドがコップの中で揺れている。机上に並べられた三つのカップの中には、浮かない様子の三人の顔が映っていた。
「陛下。窓をご覧ください」
オルクメステスは椅子を引き、窓の向こうを示す。ヘルムートは、青く生い茂る若葉のさざめきを見つめる。
「今日というめでたい日、これはご子息にとっては重要な門出と言えますでしょう。あの若葉のように初々しいお二方を見て考えたのです。我々は、いまこそ、共に危難を乗り越えるべきでしょう」
オルクメステスが手を差し出す。ヘルムートは頷き、しわだらけの手を重ねる。最後に、アンリの厳つい手が重ねられた。
「ならばこの絆を、嫩葉同盟と名付けるのはいかがでしょうか」
「永遠に絆が枯れることのないように、私たちはただその葉を重ねて風雨から彼らを守ることにしましょう」
三人は顔を向けあって頷いた。立てかけられた銀の杖に、牧杖とアイリスのマントが重なる。窓の向こうで揺れる嫩葉は、寄り添い離れあいながら、彼らに風に擦れ合う葉の音を送った。
主な出来事
皇帝ヘルムート、舞台座においてムスコール大公国宰相との不可侵協約を締結(オルケストラ密議)
カペル王国内でのプロアニア人排斥運動が過激化(霧の夜運動)
プロアニア、食料生産高の向上を公約とする。
カペル王国、エストーラと嫩葉同盟を結成。