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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1897年
38/361

‐‐◯1897年夏の第二月、カペル王国、アビス1‐‐

 今日、アビスの教皇宮殿には、歴史上考えられない国賓が訪れる。アンリ王の愛娘、イローナ・ドゥ・デフィネルと共に並び立つのは、3歳年上の皇太孫フェルディナンド・フォン・エストーラ、即ち、御羊の御座の主を守護する皇帝の孫である。『もう一つの御羊の御座』と呼ばれるアビスの現教皇である、オルクメステス2世は、いつになく浮かれた様子で目を覚ました。彼は起床早々に正装に着替え、ミトラを被る。潔白を示す真っ白な衣服に、王家とのつながりを示すアイリスの金細工が施されている。優雅でありながら篤信家が納得するような清潔さも有する、対立教皇独自の衣装を身に纏うと、彼は化粧台から薔薇水を手に取り、祈りの口上を暗唱する。薔薇水の蓋を開き、儀礼的な仕草で大仰にこれを天にかざすと、瓶に屈折した光が彼の瞳に届いた。彼は眩しさに目を細め、暗唱は続けたままで薔薇水を手に振りかけると、それを薄く伸ばして手指や首筋に塗り付けた。


 甘い芳香が仄かに香る。高齢の彼には似つかわしくない香りを漂わせて、彼は暗唱を終えた。眩い黄金で飾り付けた牧杖を手に取り、鈍重な仕草で自室から出る。


 教皇宮殿は彼の居城であり、内装は聖堂のように華美ではない。機能的な白く明るい内壁に、採光用の広い狭間があり、廊下を歩く際には影と陽光とが代わる代わる彼に被さる。


 薔薇水を混ぜた聖水で磨かれた調度品は清潔で埃一つなく、上機嫌な彼を益々上機嫌にさせた。


(こんな時のために使用人を増やしておいてよかった)


 司祭や使用人に混ざって、暇を持て余していた騎士爵などの高貴な身分の掃除人が猊下に挨拶をする。晴れ模様も相まって、彼は徐々に軽やかになる足取りで聖堂へと向かった。


 聖堂に着くと、既に主役の二人がそわそわした様子で長椅子に腰かけていた。間もなく彼らの両親も到着するだろうが、今は野次馬に集られているに違いないだろう。


 オルクメステスは初心な新婚者に頭を下げる。二人は揃って幼い丸い顔を下げた。まだ思春期に入ったばかりの少年と、思春期には少し早い少女である。教皇は親類の兄妹でも見るように、顔を綻ばせて式の準備に取り掛かった。


 燻蒸後のハーブの香りが充満する聖堂内では、燭台への灯火と、桂冠と花冠の支度、僧兵たちへの護衛の最終確認などが行われる。

 アビスの衛兵は清貧を重んじる生粋の僧侶であるため、必要以上の筋肉で威圧するようなことはない。皆礼儀正しく武器も鈍器が主であり、装備も僧衣の下にわずかに覗く鎖帷子が精々なため、主役の二名も彼らに怯える様子はない。むしろ、衛兵の方から菓子や玩具を与える始末で、聖堂には親類の新年会のような朗らかな雰囲気が漂っていた。


 当の子供達はこの結婚が意味するところを全く理解していない。ただ、唐突に異性を親に紹介されたということしかなく、思春期に差し掛かったフェルディナンドはともかく、イローナは隣の「お兄ちゃん」がどのような人物なのかもよく理解していない始末であった。


 両者は思い思いの遊びをしながら暇を持て余す。オルクメステスは説教台から、それを生温い瞳で見つめていた。


 やがて聖堂の入り口が騒々しくなる。オルクメステスの蕩け切った表情も、仕事用のすまし顔に変容していく。


 がやが目前に迫る。馬の嘶きが空高く響き、扉越しに歓声が響いた。黄色い声の中に紛れて、稀人が玄関口へ向かう足音が聞こえる。一瞬の沈黙の後、しわがれた老帝の浮かれた声が、扉越しに響いた。


「カペルとエストーラの歴史は何十年も交わる事のない大樹同士の競い合いであった事を認めなければなりません。しかし、今この時、麗しい花冠の姫君と、高貴なる狩人の宝冠が互いの額を預け合い、唇を重ね、愛の証を交わし合うことで以て誓い合う。まさにこの、この時に、私達の新たなる融和と寛容の歴史が刻まれたのでございます」


 大衆はわっと歓声を浴びせた。巻き起こる拍手喝采の中、オルクメステスは静かに、説教台の後ろで微笑を零した。


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