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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1897年
37/361

‐‐1897年春の第三月、エストーラ、在ムスコール大公国領事館‐‐

 朗らかな雰囲気の会食ののち、自国の大使館へ戻ったシリヴェストールは、再び物憂い老帝の瞳と対峙することとなる。時刻は既に12時を回っていたが、彼はアルコール成分ごと、行楽気分を吹き飛ばした。


「劇場でのお誘いについて、詳細をご説明いただけますでしょうか」


 シリヴェストールの手にはノースタット土産が握られたままである。大使館のロビーに腰を下ろしていた老帝は、先ずはその土産物に視線を送った。


「お楽しみいただけて幸いです。先ずは大切なお土産を、整理なされてはいかがでしょうか?」


 シリヴェストールは手元の荷物を持ち上げる。


「ご配慮感謝いたします。陛下を客室へご案内しなさい」


 彼は一度土産物を受付に預けると、銀杖を手にかけた老帝に先回りして客室へと急いだ。


 和平交渉の成功は、ムスコール大公国にとって、事態が好転しているとは言いづらかった。劇場での老帝からの進言を思い出しながら、彼は息を切らせて客室に明かりをつける。プロアニアとの取り決めによって、彼らはこの場所で最新の技術を使えないことになっていた。ぼぅ、と細い炎の灯りが暗闇に浮かび上がる。


 皇帝が到着すると、彼は深く頭を下げ、ソファへと皇帝を案内する。物憂げな表情のヘルムートは、杖を頼りにゆっくりとソファに腰を下ろすと、深いため息の次にこう切り出した。


本名(ピアル)と呼んでくださって有難うございます。貴方となら、安心して交渉をすることが出来ます」


 シリヴェストールが首を振る。深夜の闇の中では、二人分の顔が向かい合っているのが辛うじて見えるに過ぎない。しかし、老帝の言葉の抑揚に、素直な気持ちを感じ取った彼は、ひと先ず劇場での言葉についての追及を控えることにした。


「こちらこそ、こうして交渉の機会を与えて下さる君主は陛下くらいのものですよ」


 お互いに肩身の狭い外交関係について、自嘲気味な笑いで返す。彼らはほとんど同時に溜息を零すと、老帝は静かに前屈みになった。


「私からの御願いは、今後、プロアニアが我々への侵略行為を行った際には、ムスコール大公国は戦争に参加も支援もすることのないようにお願いしたいというものです」


「確かに我々は、国際問題の平和的解決を図ることを目的として、争いを避けてきました。しかし、プロアニアとは友好関係が長らく続いており、あらゆる平和的手段による解決が困難な場合には……」


 シリヴェストールは前屈みの姿勢で続ける。

 彼には、プロアニア王国との協力関係は、ムスコール大公国にとって必要不可欠なものに思われた。同王国からの技術的な支援が無ければ、ムスコール大公国のこれまでの発展は困難だったであろう。また、同国はムスコール大公国から各国へ向かう際の玄関口でもあった。彼の考えでは、両国間の関係が今後も続く限りは、交渉に首を縦に振ることはできないのである。


 ヘルムートは一瞬目を伏せる。それが諦めの合図であろうと判断し、シリヴェストールが席を立とうとした矢先、老帝は顔を持ち上げる。彼の眼光は、静かに燃える燭台の炎を受けて爛爛と輝いていた。


「我が国には毛皮が無くても多くの文化がある。今日披露したのはその一端にすぎませんが」


「ご、ご冗談を、陛下。我らの友好関係を、先程確かめたばかりではありませんか」


 シリヴェストールは慌てて席に着きなおし、ふらふらと手を動かす。王侯貴族へ向けたアーミンの輸出は、ムスコール大公国にとって重要な収入源であった。

 老帝の重たそうな瞼が大きく開かれる。折り重なったしわが、仄かな明かりを受けて何重にも影を作っている。


「そうそう、アンリ陛下も先程、私に対してまことムスコール大公国の妥協癖には困ったものだ、と耳打ちをされましたよ」


 シリヴェストールは息を呑む。毛皮の二大消費国が、あろうこと反公国的な意見を持っていたなどと……。


 しかし、酔いも醒まされた彼は、この老獪な皇帝が自分を騙しているのではないかという疑いも同時に抱いてはいた。仮にあの場での耳打ちが、政治的な意図のないものだった場合、彼はまんまと騙されて、場合によってはプロアニアとの友好関係に亀裂が生じてしまうのではないか。そうなれば、エストーラの思うつぼである。


 しかし仮に、本当にアンリがそのようなことを言ったのであれば‐‐まして、件の占領事件の後に、エストーラの皇帝に直々に、である‐‐、公国の経済に大きな打撃を与えかねない選択をしたことになる。そうなれば、『責任追及』などでは済まされないだろう。シリヴェストールの脳裏に、70余年前の宰相処刑騒動が過る。結果的には執行されずに終わったが、いつでも『首が飛ぶ』という恐怖は、宰相となる者であれば頭を過らないはずもない。


 彼は目の前の皇帝を見つめる。ヘルムートは黒目一つ動かさずに、彼の黒目を真っすぐに見つめていた。蝋人形のような無表情は、若き王たちの艶やかな肌では現れない、独特の恐怖を湧き上がらせる。ガス灯もないこの帝国の照明道具もまた、時代錯誤の恐怖を抱かせる。


 こうした場合の答えについて、長く政治に関与していたシリヴェストールならば、用意することはできる。彼は重い唇を開いた。


「ここはひとつ、我が国に持ち帰らせていただきます」


「それは残念だ。アンリ陛下にもすぐに手紙を出さねばなるまい」


 彼の瞳孔は伸びきっていた。もはや、この皇帝の言葉を呑むよりほかにないではないか?


 彼は震える唇を何とか噛んで震えを治め、できる限りの友好的な笑顔を作って答えた。


「我が国は平和と友好を望んでおります。プロアニア、エストーラ、カペルの三か国の紛争に関しては、常に中立の立場にいることとなりましょう」


 老帝が目を伏せる。彼は消え入りそうな細い声で、言葉をつづけた。


「そう、そうですね。我々は中立である以上、いずれかの手助けをすることは許されません」


 皇帝は柔和に微笑む。先程眉間に出来た深いしわが、少し緩んだように思われた。


「我々は変わらぬ隣人として、友好を育んでまいりましょう」


 シリヴェストールは歯を見せて笑う。彼にはもう、そうすることしか出来なかったのである。


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