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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1897年
36/361

‐‐◯1897年春の第三月、エストーラ、舞台座2‐‐

 シリヴェストールが劇場に入場すると、先に劇場へ案内されていたアンリ・ディ・デフィネル、アリエノール・ドゥ・フランソウスが、取り分けられたお揃いのケーキを茶請けにくつろいでいた。彼女たちは川遊びや鷹狩りについての雑談をしており、行楽を大層楽しみながら、ここまでやってきたのだと、彼には理解できた。


「こちらもお幸せそうで安心いたしました」


 彼の言葉に、二人は赤面して肩を竦める。ヘルムートは国賓用の椅子を引くと、閣下にこれを勧める。閣下は遠慮なくそこに座り、続けて老帝に祝福の言葉と贈り物を送った。


「陛下、誕生日おめでとうございます。ささやかではありますが、こちらをお受け取り下さい」


「有難うございます。開けてみてもよろしいですか?」


 シリヴェストールは手を差し出して開封を勧める。老帝は丁寧に梱包を外して中を開くと、懐かしそうに目を細めて歓声を上げた。

 大きな小包の中には、上質の毛皮のコートが入れられていた。

 ムスコール大公国は古くから上質な毛皮の産地として知られ、国家から専売権を買い取ったカルロヴィッツ商会による厳重な頭数管理の下で、テンやリス、シカやオオカミなどの上質な毛皮を販売している。専売権の開放以降は独自にこれらの野生動物を一部家畜化して運用するようになり、徐々に安価なものも現れ始めている。


 シリヴェストールは由緒あるカルロヴィッツ皮革取引等株式会社の毛皮を用いた高級品のコートを選んだ。柄のない茶色のコートであり、手で触れれば分厚い毛皮が柔らかく掌を包み込む。極上の品ではあったものの、彼が毛皮のコートを選んだのはもう一つ理由があった。


「故郷の肌を切るような寒さを、思い出しますね」


「毛皮には、目一杯の温もりがこもっております。職人が手縫いで作った繊細な逸品です」


「私は嬉しい。大切に使わせて頂きます」


 老帝は毛皮を優しく抱きしめると、大きく息を吸い込んで、故郷の香りを堪能する。シリヴェストールには、彼が心なしか体も大きくなったように思われた。


 シャンデリアが半分消される。彼らの眼下から、穏やかな喧騒が息を潜める。やがて舞台の幕が開くと、首脳たちが額縁越しに目にしたような楽園の背景が目前に広がった。


 『カペラの結婚』の逸話は、各国共通の神話として、広く親しまれている。何故なら、この逸話は、現行の四か国の主宰神達がカペラを祝福するという、仲睦まじく明るい調子の逸話だからである。

 普段は荒々しい雷を鳴らしたり、空に虹の雷(オーロラ)をかけるムスコール大公国の主宰神オリヴィエスがはめを外し、東を守るエストーラの守護神オリエタスがその音に警戒心を剥き出しにする。勘違いしたオリエタスをよそに、カペラの結婚式はますます激しく、情熱的に祝福されるのである。プロアニアの主宰神である神匠ダイアロスの作った指輪がカペラに送られると、物語はクライマックスを迎える。カペラの花冠の頭上に太陽が昇り、花冠を眩く照らす。指輪がぎらりと光れば、世界は晴れ渡り、地上の人々はさざめく太陽のお陰で豊作の年を迎えた。


 公演は駆け足だが明るい三拍子で始まる。先ずは人々が顔を覗かせるカペラの姿に目を奪われる。カペラがソプラノの高音で空気を揺らし、それに被せるように、バスの歌声が地面を揺らす。

 新郎新婦の入場は晴れやかな笑顔で始まり、日が昇る前の仄暗さの中に、二人のはにかみがちな笑顔が浮かぶ。

 そして主演二名が口づけを交わすと、地上はますます暗くなり、曇天の代わりに舞台の上に黒い垂れ幕が降りる。半分降り切ったところで、ティンパニの連打音がくぐもって響き、シンバルが打ち鳴らされる。

 空を見上げる二人と共に、東の奥でオリエタスが立ち上がり、空を見上げて弓を構える。北には高齢で筋骨隆々の役者が酒瓶を片手に陽気に踊る。シンバルの余韻とティンパニの打撃音が徐々に短くなっていき、暗雲に戸惑う二人とその従者たちが旋回しながら歌う。

 悲鳴に似た高音と、それを慰める低音との掛け合いが暫く続き、やがて空を覆う垂れ幕が持ち上がると、同時に半分消されていたシャンデリアに火が灯され、垂れ幕の中に控えていた球形のランプから、黄色い光が舞台に降り注ぐ。


 大団円を迎えた劇場に拍手喝采が起こる。万雷の喝采の中、アンリはスタンディングオベーションの際に感想を耳打ちするような気軽さで、ヘルムートの耳元に口を近づけた。


「家族の樹を繋ぐ支度が整いました」


 老帝は静かに頷く。


 舞台装置が照らし出す喝采の中で、シリヴェストールは不意に、穏やかな皇帝の低い声を耳にした。彼は一瞬目を泳がせて戸惑ったが、人々の喝采の声に酔った流れのままに、静かに頷いた。彼は暫くして、血の気が引いたに違いない。世界融和の大団円への歓声が響く中で、相反する思惑が始まろうとしていた。


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