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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1896年
34/361

‐‐◯1896年秋の第三月第二週、エストーラ、ブリュージュ3‐‐

 秋の暮れ、夜の冷え込みは一層激しく、深まった紅葉の騒めきは華やかに身を震わせております。轡を外し、乾いた口に水差しから水を流し込んだマリー様は、夜宴の食事もほとんど喉を通らないというご様子でした。この度の宴会は、アンリ陛下による心配りで食材が提供され、ブリュージュの料理人による豪奢なフル・コースとなっておりました。

 しかし、会場の空気はあまりにも重苦しいもので、ヘルムート陛下も食事が進まないご様子でした。


「マリー君。その、無事で何よりだ……。対応が遅れてしまったことを申し訳なく思う」


 陛下がそう仰ると、マリー様は怒りに身を震わせ、机を叩きます。


「無事ですって?何が?どこが!?私が助けを求めても、ちっとも兵も寄越さない癖に!御託ばかりつらつらと偉そうに呟いて!貴方が臆病者だから、こういう結果になったのでしょう!確かに『寝帽子』の血縁者だわ、反吐が出る!」


 今宵は満月で、空は高く明るく、平和の祝賀に相応しい天気ではございました。しかし、そう。調理の塩辛さが……耐え難い慟哭をますます促すように思われました。

 マリー様は突っ伏して泣き崩れてしまいます。互いに憔悴しきった陛下とマリー様は、喉に詰まった思いが邪魔をして、極上の料理さえ通らないといったご様子でした。


「……本当に、私はどうしたらよかったのか。貴女に酷いことをしてしまった。怖かっただろう、苦しかっただろう。本当に申し訳なく思っている……」


「貴方はいつもそうやって、しおらしくしてさえいればいいと思っているのでしょう?嗚呼、お可哀そうなカサンドラ様!こんな根性なしに娶られたばかりに……!」


「お言葉ですがマリー様……!」


 私は耐え兼ねて立ち上がります。すかさず、しわだらけの陛下の手が私を抑えました。


 陛下は、首を横に振られます。恐怖と憎しみのあまり乱心してしまわれたマリー様は、今も酷い暴言を、陛下に浴びせておられました。


 シェフが腰の前で手を合わせ、時計の針を気にしております。極上の料理もひとたび時を過ぎれば、味も落ちてしまうものです。気まずい空気が流れる中、取り乱したマリー様は乱暴にフォークを持ち上げると、皿がきん、と音を立てるほどの強い力で、料理を突き刺して口に運ばれます。


「不味い、不味い、不味い!」


 涙を流しながらも、マリー様の手は止まりません。やつれ痩せこけた彼女の身の内に起こった出来事の悲惨さが、垣間見えるようでした。


 澄み切った空気が月明りを鮮明に切り取り、瞬く星々の間には深い黒色を纏っています。秋の夜の肌寒さが思考を益々冴え渡らせ、身の毛もよだつ憎悪が部屋中に充満しておりました。肉、野菜をふんだんに用いたフル・コースが、これらの憎悪の受け皿となって、各々の腹の中へとくべられていきます。


 陛下はただ黙っておられました。返す言葉全てが、彼女を傷つけるように思われたのです。もはや謝罪も同情も、届くことはなかったのでしょう。重苦しい空気が、終戦の晴れやかな解放感に勝ってしまい、我々は味のしないガムを噛み締めたのです。


「……マリー様。どうか、落ち着いて下さい。この場所はあくまで終戦の祝いの席、心中こそお察しいたしますが、今は平和を噛み締めようではありませんか」


 沈黙を破ったのはアンリ陛下でした。マリー様がアンリ陛下を睨みつけます。その目の鋭さと言ったら、宛ら牙を剥く猟犬のそれでございましょう。歯茎まで剥きだした彼女に対して、この若き王はただ苦笑いでこう続けたのでございます。


「……200年紀の平和の時代、私たちは手を取り合ってきた。そうでしょう?ならば、この度の危難を乗り越えるためにも、そうした姿勢が必要ではありませんか?」


 機械時計の駆動音が静寂に沈んだ空気を震わせます。マリー様は賢明なお方ですから、アンリ様のお言葉を理解しておられることでしょう。しかし、心とは、どのような理屈よりも現実を見つめているものです。


「何故、エストーラ皇帝ともあろうお方が、ブリュージュを守って下さらなかったのか。それは協力ではなく、これまでの関係が搾取であったと、暗に認めることになるのではありませんか?蜥蜴の尻尾切りが出来なくて大層残念でしょう。お悔やみ申し上げますわ」


 マリー様は乱暴にフォークを皿に放り投げると、足早にその場を去って行かれました。肩を怒らせて歩く彼女の背中を、陛下の潤んだ瞳が見送っていきます。乱暴に扉が閉ざされてから数分後、口を拭ったアンリ陛下は、極上の料理をただ眺めるばかりの陛下へと、視線を送られました。


「ブリュージュの守りは200万ペアリス・リーブルで請け負います。お支払いは、プロアニアもちと言うことで」


 陛下は力なく頷かれました。彫りの深い強面が、口角を持ち上げて微笑みます。


「取って食べたりは致しません。先ほど言ったとおり、我々は平和のために協力しなければなりません。今はただ、互いの飢えをしのぐことしか出来ませんが……どうか、お気を強くもたれて下さい。翌年には、そう、翌年には何とか、陛下に良い報せがご用意できるはずですので……」


「貴殿もどうかお気を付けて。災害はいつ起こるか、私達には予期できません……」


 アンリ陛下は静かに頷かれます。食器を片付ける音が聞こえ始めると、彼は照れ臭そうに歯を見せて笑い、「それでは、どうか良い夜を」とだけ告げ、宴会場を後にしました。


 陛下は一人、レア・ステーキの切れ目を見つめながら、瞳を潤ませております。その丸い背中には、後悔と苦しみと、多くの重責がのしかかっておりました。


主な出来事

 プロアニアのジャガイモ飢饉

 プロアニア、エストーラ領ブリュージュを占領(ブリュージュ占領事件)

 カペル王国及びエストーラ、プロアニアへの宣戦布告。

ムスコール大公国、調停官をブリュージュに派遣。

プロアニア、ブリュージュを返還、エストーラ、賠償金の支払いを約束。(ブリュージュ講和会議)

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