‐‐〇1896年秋の第三月二週、エストーラ、ブリュージュ2‐‐
かつて伯爵邸には、数多の美術品がありました。今は名画という名画は額縁ごと引き剝がされ、裸出した壁面にくっきりと日焼けの跡を残すばかりです。陛下はその一つ一つを噛み締めるように眺め、何か物思いに耽っておられるご様子でした。
「陛下、調印式の会場はあちらです」
小銃を構えたプロアニア兵がくぐもった声で言います。分厚いグローブで包まれた手は僅かに湿っており、どこか焦ったような印象を抱く声音でした。
陛下は杖を頼りにゆっくりと方向を直し、酷い空腹で弱った体を大宴会場へと進めます。かつてあった絵画を名残惜しむように、陛下はしきりに廊下で立ち止まっては、日焼けしていない壁面をじっくりと眺めました。
大宴会場に入室すると、そこにはイーゴリ調停官、アンリ・ディ・デフィネル カペル王陛下、そして彼らの付き人とが長机を囲んでおられました。
アンリ陛下は年長者の到着に気づくと、銀の杖の前に駆け寄り、跪かれました。
「陛下、ご無沙汰しております。お変わりありませんか」
「アンリ陛下。お顔を上げてください。貴方は私の臣ではないのですから……」
陛下はそう言うと、小刻みに震える手を差し出されます。アンリ陛下は立ち上がり、その手を強く握り返しました。
「この度の危難、心中お察し申し上げます。どうか今日が、実りある会合でありますように」
「アンリ陛下も。お忙しい中で、わざわざご足労頂き感謝申し上げます」
両陛下は互いを労いあうと、自らの座るべき席へと戻ります。格式は互いに対等ではありましたが、アンリ陛下はヘルムート陛下を上座へと誘われます。陛下もそれに従い、ゆっくりとした動作で席へと向かわれます。
「ヴィルヘルム陛下の御成り!」
まさに陛下が席に着かれようというその時、扉の前に控えていた兵士が、頭を割るような大声で叫びます。
扉は彼らによって厳かに開かれ、若き王ヴィルヘルムが厳つい軍服姿で入室しました。
陛下は握手を交わすために姿勢を正して陛下の入場を待ちます。ヴィルヘルムの後ろには十数名の兵士と、隣に彼と年の近い家臣が一人、そしてその後ろには轡を嵌められ、少しやつれたマリー殿を引き連れておりました。アンリ陛下が荒々しく椅子を引いて立ち上がります。その目はマリー殿の酷いお姿に釘付けになっておりました。
ヴィルヘルムは堂々と胸を張り、握手を求める陛下を肩で押しのけて、陛下の座ろうとした席へとつきます。
「どうなされた、カイゼル・ヘルムート。貴殿の席はあちらでは?」
しばらくの沈黙ののち、唇を戦慄かせたアンリ陛下が怒号を浴びせました。
「貴様!年長者を労わるという心がないのか!」
「おや、アンリ陛下。おられたのか。あまりにも影が薄いので気づかなかったよ」
ヴィルヘルムはからからと笑います。アンリ陛下が肩を怒らせてこちらへ向かってくるのを、ヘルムート陛下は両手を出して諫めます。
「陛下、私は良いのです。平和のための細やかな配慮です。どうか、お気を鎮めて下さい」
この場において最年少の王は歯を剥き出しにして鉄兜を睨みつけます。鉄兜の下では、膝の上に置かれた手が手持ち無沙汰に一人遊びを始めておりました。
「ヘルムート陛下のご厚意にせいぜい感謝するのだな!溝鼠が!」
アンリ陛下はそう叫ぶと、乱暴に椅子に掛け直しました。陛下が二人の後ろを横切って、とぼとぼと下座に腰かけると、机の上で祈るように手を組んで、一つため息を零しました。
「さて、イーゴリ殿。調停は手短に済ませていただきたい。そこの阿呆と隠居者と違い、私は忙しいのでね」
イーゴリ様は一つ咳払いをすると、講和会議用の文書を開きました。首脳たちは既に渡された文書を開き、目を皿にしてそれを吟味します。
「皆様の求める条件を加味した結果、講和条件は以下の通りとなります。一つ、プロアニアはエストーラへブリュージュを返還し、マリー・マヌエラ・フォン・ブリュージュ・ツ・ファストゥール様を開放する、一つ、エストーラはブリュージュでのプロアニア兵の各種行為を追認するとともに、賠償金として年利5厘の金利で、800万ペアリス・リーブル分だけ支払う、一つ、これについて、カペル王国は連帯保証人としての責任を負う、一つ、プロアニアは、カペル王国に対して、200万ペアリス・リーブル分を順次支払い、ただし金利を支払う必要はない。以上について同意されますか?」
「施しと思えば?」
ヴィルヘルムは即座に応えます。アンリ陛下が眉間にしわを寄せ、ヴィルヘルムを睨みつけておられました。
「不本意ではあるが、ひと先ずはこれを呑むより仕方がありません」
私は陛下の御顔を窺います。陛下は杖に体重を預け、目を細めながら調停文書を眺めておられます。
痛ましいのは、陛下が僅かに身を震わせていることです。お召し物こそきれいに整えられておりますが、長く続く断食による、今にも倒れそうなほどの肉体の衰弱が感じられます。しかもそのご配慮は、この理不尽極まりない要求の、ただ一言で無駄になるのです。
「私は……命こそが宝だと、そう思っている」
「御託は良いからさっさと答えてはいただけないか?」
鉄兜の裏から、不気味な眼光が光ります。アンリ陛下が机を強く叩くと、ヴィルヘルムは両手を開いて持ち上げ、驚愕のジェスチャーをして見せます。
「ヴィルヘルム陛下、どうか老いぼれの言葉を聞いてほしい。私にとって、臣民は代えがたい宝だ。臣民の歌と踊りと、笑顔が何よりも私を幸福にする。この争いは私の求めるものではない」
陛下は続けて、アンリ陛下に視線を送られました。
「どうかわかってはくれないだろうか?私はこの要求を受け容れる準備がある。全ての国の民と、何よりも我が臣民の幸福のために……」
暫く沈黙が流れます。宝石付きの額縁と色彩豊かな絵画で飾られた、絢爛だった大宴会場のがらんどうよりもなおも勝る静寂。
アンリ陛下の瞳には、小刻みに身を震わせる陛下の、覚悟に満ちた瞳が映ります。ヴィルヘルムは明るく殺風景な壁の前に座る、虚ろな瞳の老人を見つめています。二つの視線は陛下のもとで熱線となって交わり、陛下の御そばに控える私の胸中を熱くします。イーゴリ様が文書をずらす音によって沈黙は破られました。
「では、皆様の同意が出来たということで、調印に移りたいと思います。こちらにペンを用意しておりますので、皆様お集まりください」
ヴィルヘルムは立ち上がると、即座に調印をして、兵士たちを連れて部屋を退場します。アンリ陛下はこちらを気にしながら、ペンを持ち上げ、それを代筆者の男に渡されました。やがて、陛下が重い腰を持ち上げると、数分もかけてイーゴリ様の傍へと向かわれ、震える手で流暢なサインを刻まれました。