‐‐〇1896年秋の第三月第二週、エストーラ、ブリュージュ1‐‐
かつて商人たちが鮨詰め状態になっていたブリュージュの中央通りでは、今はいかつい軍服の男たちが険しい表情で警備をしておりました。久しぶりにブリュージュへと降り立った陛下の第一言は、「何という事だ……」でありました。
石畳には無数の亀裂が走り、凹凸の出来た大通りには、べったりと付いた血糊や薬莢があちこちに落ち、見上げれば尖塔に串刺しにされたプロアニア兵の骸が宙吊りのままで放置されておりました。
陛下はそれらの犠牲者たち‐‐敵と味方とを問わずに‐‐に手を合わせ、神に祈りを捧げられ、私はその寂し気な背中をただ見つめることしかできませんでした。
教会の鐘だけが、定刻を告げる音を無情に響かせ、カーテンの隙間から無数の瞳が、善き皇帝の丸まった背中に向けられておりました。私は、ただ陛下の背後に付き、こうした瞳がスコープに切り替わらぬように壁となって遮ることしかできません。陛下の深い悲しみに触れ、市民や子供達が泣き崩れてしまいます。ブリュージュ伯爵の館に至るまでに、幾度となく合わせられた皺だらけの手は、僅かに戦慄いておりました。
私は陛下を労わりながら、館へと歩を進めます。長い道端に残る痛ましい弾痕と激しい魔法の痕跡が、まさにこの場所が戦場であったことを物語っておりました。
「マリー嬢はご無事だろうか……」
陛下の言葉に、付き人一同は顔を見合わせます。そうした気遣いがより陛下を傷つけるのではないか?私は敢えて現実を包み隠さず話すことにいたしました。
「ご存命であるという報告は伺っております。しかし、プロアニア兵に何らかの拷問を受けていたとしても、何ら不思議ではございません」
「そうか。ここは、戦場なのだな……」
陛下は静かに俯き、そう仰せになりました。伯爵の館の前には、道中よりなお多くの弾痕と、間欠泉の跡が残っておりました。激しく地面を砕かれた石畳の上を、齢61の陛下が覚束ない足取りで踏み込んでいきます。
「これは、これは。ご無沙汰しております、カイゼル・ヘルムート!ご気分がすぐれないご様子で」
地面をかつかつと叩く、銀製の杖の音がもうひとつ、伯爵邸の前へと近づいて参ります。陛下はそっと顔を持ち上げ、僅かに正視したのちに、含みのある笑みを作って振り向かれました。
「お会い出来て光栄に存じます、ヴィルヘルム陛下。今日という日が我々の望む、平和へと続くように祈っております」
陛下はそう言うと、年若いヴィルヘルムに手を差し出されました。ヴィルヘルムは少し手を取るか躊躇った後、白い手袋を外して握手に応じられました。
「私は今、マリー殿がご無事かどうか、それが気がかりでならないのです。どうか先ずは、マリー殿の元気なお姿を見ることを許していただけますでしょうか」
陛下は酷くへりくだりながら仰いました。対して、もう一人の統治者は、こちらの出方を伺うように、陛下の俯きがちな表情を覗き込みます。
その悪意に満ちた含み笑いの幼稚さは、果たして統治者として相応しいのでしょうか。
「お言葉ですが、陛下。貴方の選択が正しいか否かは問題ではありません。私の選択が正しいか否かが問題なのです」
「……ヴィルヘルム陛下。世界の困窮を乗り切るために、我々が選ぶべき道をどうか間違えることのないようになさって下さい」
ヴィルヘルムは右手を徐に開いて見せ、それを腰へと運びます。そして、携行している拳銃を弄び、陛下のこめかみに押し付けます。不気味な含み笑いに対して、陛下はただ無表情で、銀製の杖で身を支えたまま佇んでおられます。腰の曲がった陛下の姿を鼻で笑うと、黒光りする拳銃は下ろされます。
「行くぞ。時間の無駄だ」
彼は踵を返し、伯爵邸へと向かっていきます。陛下は杖を突く手を小刻みに震わせながら、上目遣いに若い皇帝の背中を見送られました。
「陛下、ご無事ですか?」
「ああ。情けないところを見せてしまったね。すまない、ノア」
陛下は自嘲気味に微笑み、震える手を杖の上で重ねます。嗚呼、おいたわしや、陛下。
「そのようなことは……」
「あまり先方を待たせるわけにはいくまい。そろそろ私たちも向かおうか」
陛下は気丈に微笑むと、凹凸の石畳に足を取られながら、ゆっくりと、伯爵邸へと向かっていかれました。