‐‐1896年秋の第一月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク3‐‐
ムスコールブルクの斜陽ほど、ノスタルジーを感じる景観はない。玉ねぎ型のドームを色付けるオレンジのあかりが、泥の混ざった石畳の上に降り注いでいる。ガス灯のぼんやりとした光が、夕陽に共鳴するように、通路に灯り始めた。町をとおりかかる厚着の異国人が、薄着の住民を目にしてぎょっとする。
背の高い白い建物から出てすぐの表通りで、レフは夕刊を購入し、恐る恐る政治面を開いた。
政治面には、ムスコールブルクで起こった騒動についての仔細が記述されていた。『揺れる親友との絆、我が国の選択』という大きなタイトルの隣に、プラカードを持ち、声を上げる人々の挿絵が乗せられている。あくまで中立を貫く立場らしい新聞には、プロアニアの侵略行為についてと、政府の見解が書かれていた。一方で、紙幅の約半分が、行進参加者の言葉を纏めたもので、親プロアニア派の人々がいかに今回の飢饉に対して危機感を抱いているのかが、レフにさえ伝わってきた。
既に傾きだした夕陽が城壁の中へと沈んでいく。通りすがりの人々は、そろそろ降雪の対策を始めて、道具を買った帰りであろう。レフは首を振ると、自らも雪かきの支度をするために閉場間際の商店街へと向かった。
「おい、今日の夕刊見たか?」
すれ違う学生の声に、彼は思わず身震いをした。学生達は今朝のデモについて、また煩い活動家の仕業だろうと楽観的に話し合っている。レフは胃を摩って労わりながら、秋の降雪の支度を進めた。
雪かき用のスコップと荷車、雪かき機などを購入した彼は、閉場の合図を告げる教会の鐘が鳴ると、不意に顔を持ち上げた。
既に辺りは暗くなっている。
政府は閣議通りにプロアニアにブリュージュの返還を要求することだろう。万が一プロアニアとムスコール大公国との間に亀裂が生じたとしても、ムスコール大公国にプロアニアは従わざるを得ない。それは、ムスコール大公国が地下資源の多くを供給しているからである。常識的に考えればこの通りだが、プロアニアが縁を切ってでも、カペル王国への侵攻を強行することが万に一つもないとは言い難い。現王ヴィルヘルムなら、そうしかねないのだ。そうなれば三ヵ国で包囲して全面戦争……となればまだ、プロアニアの勝ち筋は全くなくなるだろうが、レフは自国民の戦争嫌いを十分に理解していた。最悪の事態として、プロアニア対カペル・エストーラの戦争中に、ムスコール大公国では大戦勃発の責任を追及された内閣と、それを非難した応報として国会が両者ともに解散され、国内の政変が混乱を招くこともあろう。こうなると、最早レフにできるのは、選挙によって安定政権の樹立を祈ることだけで、その為に他国からの干渉を遮断するという余分な仕事を背負わされることになる。新政府との顔合わせも大変だ。
ここは一度様子を見ながら、慎重に交渉する必要があるのではないか。レフは思考の迷路に足を踏み入れようとしていた。
雪かき道具を抱えたレフの背中に夜が迫りくる。彼は貴族も住む一等地にある自宅へ向けて、ガス灯の間を進む。迫りくる氷輪が、彼の視界をゆっくりと奪っていく。
翌朝、レフの手元には、仲裁を受け入れるプロアニア側の合意書が送られてきた。彼は内心ガッツポーズをして歓喜したが、読み進めるうちに気味の悪い違和感に襲われた。
『国王ヴィルヘルムは貴国との変わらぬ友好を望んでいる。ついては、我が国が貴国にもたらしたものと同じものをご用意いただけないだろうか』
レフは思わず唾を飲み込んだ。長く外交に携わった者として、この含みを帯びた言い回しの正体を見抜く自信が彼にはあった。しかし、その要求はあまりにも危険で、プロアニアに対して友好的な態度をとることよりもなお国益を害するのではないか、という不安に襲われた。
彼は外務相と連絡を交わし、この文言についてはしらを切るという見解の一致を得ると、即座にタイプライターを叩き始めた。
慣れない手つきで鍵盤を叩く。イーゴリの報告の通り仲裁が上手く纏まることを喜ぶ旨の返信と、貴国との友好は変わらず続くだろうという見当違いな言葉運びで、大使館への返信を打ち込んでいく。流石の外務省長官であっても、この一文字で世界の命運が決まるという緊張感には、手を震わせながらの打鍵となった。
一仕事を終えたレフは、背もたれにもたれ掛かり、深い溜息を吐く。その時、スタンド型の電話機が不快なベルの音を鳴らす。彼は思わず飛び上がり、反射的に受話器を取った。
「はい、こちら外務省、レフですが」
「レフ、御免なさい。アーニャです。少し今後のことで話があるのだけど」
レフは再び深い溜息を吐いた。彼は受話器に釘付けになり、アーニャからの一連の報告を受け取ったのであった。