‐‐1896年秋の第一月第二週、ムスコール大公国首都 サンクト・ムスコールブルク2‐‐
内務省副長官アーニャは、レフの呼び出しに渋々応じることにした。部署は違えど彼女もまた、大臣の名前を覚え直すのが億劫なことはよく分かっていたからだ。彼女は浮かない顔で狭い廊下を歩きながら、イーゴリの報告書が回ってきた際の安堵感を懐かしく思い出していた。
ムスコール大公国の中枢である首都の景観に合わせた、真っ白な壁のこの建物が、彼女たちを含めた官僚たちの職場である。外見こそ立派だが手狭で遊びの少ないこの場所に縛り付けられて、彼らは日々くだらない苦情からさらにくだらない閣議の決定、それと同等にくだらない野党からの質問に対する返答などに頭を悩ませているのである。民衆からの問い合わせは少ないため、厚生省などと比べれば突然の残業も少ない部署ではあったが、議員の上っ面だけの言葉に嫌気がさすのはやはり彼らの仕事にも共通していた。
「レフ、来たわよ」
すっかりやつれた様子のレフは、くたびれた椅子にもたれながら、親し気に手を挙げて見せた。
「やぁ、アンナ。今日は一段と美人だね」
「貴方所帯持ちでしょ。昼食のお誘いなら帰るからね」
「ああ、悪かったよ。ほんのジョークさ」
アーニャは肩を竦める。レフが彼女の為に椅子を動かす。
しかし、オフィスの中は昼食を取る者がちらほらと現れ始めていた。フォークをカチャカチャと鳴らしながら、行儀悪くパスタを絡めとる音が周囲に響く。
二人は顔を見合わせて頷き、コーヒーを注いでから階段まで向かう。階段の二段目にレフが座り込むと、その一段上にアーニャが腰かけた。そうすることによって、二人は互いを同じ目線の高さで見つめあうことができるのである。
「今回の一件、プロアニア王国の差し金であることは間違いない。ただ、厄介なのは、『明らかに悪い』ことは国益に反するということだ」
レフはそう言ってコーヒーを啜る。空腹を抑え込む為に鳴った腹の音が、今度は濃いカフェインに対抗しようと鳴った。
「よくは知らないけれど、プロアニアは飢饉でやむを得ない事情もあるんでしょう?」
アーニャは外交の専門家ではない。勿論、彼女なりにプロアニアの動向について思うところはあるのだが、政治というものは善悪では割り切れないこともよく承知していた。レフはコーヒーの湯気を顎で受け止めながら、階段から覗く廊下のほうを見つめた。
「そこがみそなんだよ。プロアニアの実際の野望がどうあれ、俺たちに求められるのは言語化された部分による調停だ。そうすると、プロアニアという国の秘匿体制は重要な意味を持つ」
アーニャもコーヒーを流し込む。薄めたカフェインが程よく彼女の脳を冴えさせる。階段を登る部下に手を挙げて挨拶をしてから、レフは続ける。
「あの国には、見せるべき情報だけを見せるということが出来るんだ。だから、今後彼らがどういう戦略を立てているのか、それを読むことが難しい。実際、今回の一件について、ホーエンハイム家からの勅令や号令に関する情報は得られていない。だが、あの侵略が局所的なものであったとも到底考えられない」
「その状態でブリュージュを明け渡してしまうと、カペル王国への道が出来てしまう。それがプロアニアにとって重要な意味を持つかもしれない?」
「そう!そういうこと!」
レフは振り返ってアーニャを指さす。アーニャは鬱陶しそうに指を払う。傍から見れば微笑ましい光景であったが、仄暗い階段の雰囲気が、彼女たちのスキンシップに影を差している。アーニャは俯きがちにコーヒーの中を見つめる。
暫くして、彼女は顔を持ち上げた。
「ねぇ。報告書は、そのまま会議に送るつもり?」
「そうするしかないだろう。今回ばかりは、プロアニアへの全面支援もできかねる。エストーラにブリュージュを返してやらなければ、こっちの立場にも影響が出るだろう」
ムスコール大公国はあくまで中立の立場で三か国に干渉する必要がある。これは、三国から自国への侵略が凡そ不可能であるからこその余裕でもあったが、交易品の主要取引先が三か国全てにあるこの国にとって、輸出入への影響を懸念せざるを得ないという理由もあった。
特にエストーラの皇帝は、ムスコール大公国のウラジーミル出身者である。簡単に足切りをしてしまえば、それもまた世論に悪影響を及ぼす。
「……何も起こらないと良いけど」
アーニャがコーヒーを啜る。休憩終了の鐘の音が響き、二人はほとんど同時に立ち上がった。
レフがアーニャの肩を叩き、別れを告げて立ち去っていく。アーニャがそれを見送った後で、ポケットの中をさりげなく探る。彼女はそこにあった「広告の裏紙」を開きながら、階段を登っていった。