‐‐1909年、春の第三月第三週、ムスコール大公国、ムスコールブルク大学‐‐
初夏の風が吹き出す頃特有の、浮足立った町の喧騒の中、青天の霹靂に慌てふためくベルナール・コロリョフは複数の資料を鷲掴みした。くしゃりと耐え難い音が周囲にむなしく響き、手が怒りと遣る瀬無さに震える。仇敵プロアニア王国は、既に戦争の窮屈さを脱し、その技術的威信を堂々たる形で示したのである。
数々の『世界初』の技術を生み出したプロアニアは、仇敵に見せつけるように、ラジオ放送を垂れ流した。かつて、これほど屈辱的な成功報告を受け取ったことがあるだろうか。彼の焦りに反して、ムスコール大公国の国民たちは、今も暢気に自分の権利を歌い上げる。「平和」と「権利」のための行進が、長い長い列をなして、宮殿に向かって続いていく。
不格好ながら、ムスコール大公国にも空に人工物を送る技術は揃っているはずであった。それをみすみす逃してしまった。ベルナールは鷲掴みにした資料をゴミ箱の中へ放り投げた。
彼の自室のドアを、荒々しくパパラッチが叩く。彼は肩を怒らせながら歩き、乱暴に扉をこじ開けた。
その勢いに面食らった取材陣が目を瞬かせる。冷静さを失ったベルナールの形相は、およそ人に見せられるものではなかった。深い彫り、真黒な谷をいくつも顔面に作り、取材陣のたくフラッシュが途切れる。
「い、いま、取材、よろしいでしょうか?」
「どうぞ!」
乱暴な叫び声に、質問者が身を竦ませる。ベルナールは少しずつ冷静さを取り戻し、息を切らせながら質問を待つ。怯えた様子の質問者は、マイクを持ち直して恐る恐る尋ねた。
「プロアニア王国が人工物の宇宙への打ち上げに成功したそうですが」
「伺っております」
静かな声音に、怒りが乗っている。それを敏感に感じ取った取材陣は、顔を見合わせて薄ら汗をかいた。
「ベルナール教授はこの件について、我が国としてとるべき態度はどのようなものと考えますか」
「えぇ。間違いなく、我々の威信をかけて宇宙飛行を達成させる必要があるでしょう。何よりも、プロアニアに対して技術的な脅威であることを示さねばなりませんから」
早口で述べるベルナールは、「もうよろしいでしょうか」と確認を取る。流石の取材陣も鬼の形相に逆らえず、そそくさと後退りした。
ベルナールは激しく戸を閉ざす。乱暴な風が肌を切ると、取材陣は目を瞬かせて向かい合った。
「あんな人、だったか……?」
ベルナールは応接用の柔らかいソファにどさりと座り込むと、首を垂れ、頭を抱えた。憎々しい唸り声が漏れ出る。
この国の政府は……。
この国の国民は……。
消えては現れる恨み言に、自らの足踏みにブレーキを掛けようと抗おうとも、無駄な努力であった。
何せ、真に技術は揃っているのだから。特許を集めて、大枚を叩けばとっくの昔に宇宙飛行は成しえたのだから。それは、プロアニアもずっと前に成しえただろうが、彼らが関心を持たないうちに、我が国ならば成しえたのだから。
許可さえ下りれば。論難さえなければ。手元には技術ばかりで、彼が権限を持っていないのだから、成しえるはずもない。
ベルナールは机を乱暴に叩く。灰皿が宙を踊り、からからと悲鳴を上げた。その不愉快な音は彼の琴線に触れ、益々の不快感に灰皿を持ち上げて叩きつけた。
大学の備品である机に大きな傷跡が出来る。荒い息遣いで肩を上下させ、ベルナールは再びソファにもたれ掛かる。
‐‐落ち着け。次だ、次だ‐‐
もう次の策を弄するしかない。人工物を先に宇宙へ飛翔させることに成功したのだから、次は生体を、我が国が先んじて宇宙空間に送り込むよりほかにはない。ベルナールは徐に白紙の便箋を手に取り、そして、さらさらと嘆願書を書き殴った。
流麗な文字の運びに、掠れたインクの痕が残る。「宰相閣下、緊急の予算を頂きたく云々」と……。その流暢な筆致で記されていく。
あの政府から金を工面してもらうことこそが、ベルナールの第一課題であった。金にならない宇宙開発に、企業から裏金献金を頂くことは困難だからだ。あの信用ならない政府から、金の支援を受けるしかなかった。
彼は祈るように手を合わせ、その手に額を乗せてまた祈るように唱えた。
「もう出遅れは許されない。通らなければ、この話はもう終いだ……」
彼の予想に反して、翌日には、迅速かつ明確な返答がきた。それはラジオ越しの国会中継でのことである。
「先ずは地上の問題が最優先だ」と。
嘆き声も上がらないまま、ベルナールは落胆の中に沈んだ。