‐‐1908年、秋の第三月第二週、ムスコール大公国、ウラジーミル‐‐
高い岸壁に胡坐をかき、水鳥を描く人がいる。空は曇り、地面は白く雪化粧を始め、年末の装いを徐々に強めている。
凍てつく空気の中で息を吐き、白い蒸気が空へ昇る。足元には激しく波打つ海があり、地の底から響く激しい波の音が、積もる雪の音をかき消している。
視界の隅には、大きな土地を囲う柵があり、そこには『建設予定地』と記された看板が立っている。看板にもすっかり雪が積もってしまっていた。
「聞いたかい。げんしりょくちゅうものがくるんでよ。おっかねぇんだって」
全身を毛皮で包んで着ぶくれした、古くからの装いをした市民たちが通り過ぎていく。
看板に積もった雪がひとりでに落ち、一瞬通行人が看板の方を向いたが、直ぐに話に戻ってしまった。
「プロアニアで事故が起きたそうな。当てられた人間は混凝土で固めて埋めるしかないとか」
「ひぇっ、恐ろしいなぁ。今の暮らしでもええのに」
絵画を描く人は顔を持ち上げ、白い息を再び空へ送った。
波の音に混ざって、水鳥の鳴き声が届く。それは甲高く良く響き、頭に積もる降雪さえも揺れるほどだ。
絵を描く人は歌を口ずさむ。物悲しい曲調だが、歌詞は至って明るい歌で、陽気な散歩の様子を歌った童謡である。
「首都では大騒動だそうな」
「科学の進歩ってのは難しいねぇ」
通りがかりに聞こえる声が、彼の歌声を止める。海鳥が小さく、見えなくなると、スケッチブックを畳み、体育座りをして、身を縮めた。
「そう言えば、公園で空にロケットを飛ばしてた爺さん、いたよな」
暫く身を千々こめていた絵描きが顔を上げる。気が付けば、話しこんでいた老人に代わって、若く瑞々しい声の猟師が二人、猟銃を肩に掛けたまま話し込んでいた。
「あー、いたなぁ。なんか遊んでもらった記憶あるわ。なんつったっけ」
「俺達はボトル爺って呼んでたけどな」
「俺もそうだった気がする。懐かしー」
若い猟師たちは談笑を交えながら通り過ぎていく。彼は古い鉛筆を大事に筆箱に仕舞い、大きな鞄の中に仕舞う。絵描きはどこか満足げにはにかみ、立ち上がった。
尻の形が雪の中にくっきりと残っている。底冷えのしない厚底の靴でその痕跡を均し、荷物を肩にかけた。
薄く暗い雲の隙間に、旭日が垣間見える。一度ぴたりと足を止めた絵描きは、暁の空に白い息を送り、水平線の向こうから放たれる、波打つ光を目で追った。
長い長い夜が明け、旅人が宿から踏み出す朝が迫る。暁色の逆光を受けて、彼は厚底を雪に埋めながら歩き出した。連なる集合住宅の長い影の中に、犬橇の足跡が続く白い道を引き返していく。凍り付いた井戸を覗き込む人の脇を通り過ぎ、画材屋の前を通り過ぎる。
絵具が棚にびっしりと並べられた虹のような色彩の画材屋には、硝子越しにキャンバス、絵画布、筆やパレットなどが展示されている。彼は小さな値札を覗き込み、眉尻を下げてその場を後にする。
ウラジーミルの物価は安いが、給与も安く、嗜好品は高い。
「げんしりょくの話聞いた?」
「聞いたよ。近くに出来るのも白紙になるんだってさ」
「これから冬も厳しくなるのに、首都の人達は暢気だなぁ」
「薪ストーブじゃやってられないよな」
厚着で赤ら顔の人々が横一列に道を塞いで通り過ぎていく。絵描きは店の壁に貼り付いて道を譲り、置き土産とばかりに舌打ちを打った。
店先の人が、泥が付いたまま古い雪に埋まった側溝に向かって雪をかく。道を譲る老人たち、堂々と道路の真中を歩く若者たち。通り過ぎる人の表情を、絵描きは一つ一つ眺めた。
やがて彼は、古い集合住宅の前で立ち止まる。先日戻ってきたばかりのコボルトの親子が、彼に手を振った。
肘の高さで小さく手を振り返すと、鼻の湿った子供達が群がってくる。絵描きは彼らのごわごわとした毛に覆われた頭をぐしゃぐしゃになで回し、最後に二回、頭を優しく叩いて集合住宅の階段を登った。
彼の部屋のドアノブを回す。何度か強引にぐりぐりと回し、凍り付いたドアが一気に開くと、バランスを崩して尻もちをついた。
隣人に笑われ、苦笑交じりに冗談を返す。彼はドアを開けたまま、隣人に声をかけてみた。
「げんしりょくって何だ?」
物知りの隣人は、間抜けに口を開けたまま答えた。
「あー。なんか、発電所らしいよ」
「それで薪ストーブがどうのとか言ってたんだな」
「通行人の噂話か。あんまりそういうの良くないぞ」
隣人が諫めるが、彼は気のない返事を返した。隣人はじっとりとした目で彼を睨んだが、反省のそぶりも見せないので大仰な溜息を零した。
「でもあれだろ。白紙に戻ったんだろ?何で今更聞くんだ?」
「いや、何となく……」
「何だそりゃ」
二人は一通り雑談を交わし、身を震わせた。手短に別れの挨拶を済ませると、急いで室内に籠る。ウラジーミル郊外の原子力発電所建設予定地には、今朝よりも高く、雪が積もっていた。