‐‐1908年夏の第二月第二週、プロアニア王国、ゲンテンブルク‐‐
上級会議室に召集されたフリッツとアムンゼンは、国王の笑みに微妙な変化があることを悟った。
疲弊して緩んだ唇を引き締めるような表情。父王のように赤い瞳には暗色が掛かって見える。
何の事態で招かれたのかを、知らない二人ではなかった。連絡が来てすぐに、ケヒルシュタインから車を走らせたフリッツにも、疲れの表情が見える。
赤いランプで照らされた暗い机を囲んで、青ざめた一人と、残りの二人が座った。
「被曝の事故についてですが、監督者が確認を怠ったわけではなく、不幸な事故なのだと伺っております」
「フランシウム閣下」
アムンゼンは冷たく言い放つ。フリッツは唇をわなわなと震わせて、涙目を俯かせた。
国王は冷酷で疲れた笑みを浮かべながら、机に肘を置く。アムンゼンのように腰を曲げて、フリッツへと迫った。
「科学相は有能なようだが、科学省には無能しかいない。省ごと葬っても差し支えないのだろうか?」
「そんなことはありません!我々の努力は、必ずや国家を繁栄に導くと信じております!」
フリッツの弁明を遮って、王はぎらついた目を鋭く尖らせた。
「今回の犠牲については、必要な犠牲であったと言え」
「……は?」
「原子力の研究自体は必要なものなのだろう?君のことは信頼していないが、アムンゼンの言葉は信頼している。だから君が弁明をし、アムンゼンが弁明を飲めば、君と君の省への処分はそれまでだ」
召集された二名が顔を見合わせる。口をあんぐりと開け、涙目を輝かせるフリッツの顔を、無表情のアムンゼンも睨んだ。
猫に睨まれた鼠のように委縮したフリッツは、アムンゼンに縋るように迫る。
「宰相閣下。私達の技術が国家を支え、戦果を挙げたことはご存じかと思います。研究に犠牲はつきもの、まして兵器の開発となれば、尚更危険が伴います。どうか、この失態には……寛大な措置を!」
鬼気迫る表情に気圧されて、思わず王に視線を送る。
アムンゼンの革靴にぼたぼたと温かい雫が零れる。太腿にぴったりと腹をつけるフリッツの背中は小刻みに震えていた。
流石のアムンゼンでさえも、内心では困惑していた。王の意図が全く読めなかったためだ。処分するべきだというならば、この手で処分すればよいだろう。彼を許す方がメリットは大きいと彼には感じられたが、それにしても自分に処分を譲る意味も判然としない。
あるいは、彼を試しているのかも知れない。それにしては王に余裕がない。
彼は暫く思案した後、これが王の不合理的な娯楽の一種だと考えることにした。そうであれば、彼が、王の感情論を止めなければならない。
「そもそも事件を起こした当事者を処分すればよいでしょう。フランシウム閣下はケヒルシュタインにおられたわけですし、杜撰な管理とも言えないでしょう」
王は赤く暗い瞳を細めて、緩んだ唇を持ち上げた。
「なるほど。道理だね」
王は即座に拳銃を机上に放り投げ、フリッツを手で追い払った。胃のむかつきに殆ど子供のように表情を歪ませる科学相は、逃げるようにその場を立ち去った。
赤い照明だけが煌々と照りつける。長い沈黙の後、アムンゼンは王に非難の目を向けた。
「この召集は不要でした。処分のないことは初めから決まっていたことです。陛下。何を考えておられるのですか?」
王は目を泳がせ、苦笑交じりに答えた。
「必要な犠牲もあると、確認したかっただけだよ」
‐‐1874年、冬の第二月第一週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
木々も枯れ落ち罅割れた肌を晒す寒空の下を、工場の煙突から漏れる薄い煤煙が漂っている。広場のコーヒーハウスに薄ら寒い笑みを浮かべた市民たちが集う。開かれた窓の向こうには、周囲の景色に溶け込んだバラックの宮殿があり、その駐車場には一段高い断頭台がある。そして、壇上には身なりの良い使用人と死刑執行人の姿がある。
死刑執行人は震えていた。怒りと恐怖との双方に駆られて、まともに照準を合わせることが出来ないほどに。
執行人の年頃は10歳前後で、若いというよりは幼い。同じ年頃の市民はキャスケットを被り、新聞を配ったり、馬車の番の合間に小説を読んだりする。それはその日も違いが無かった。
その日処刑される人物の顔を、多くのものが見知っていた。王子の世話役であり、歳は14、聡明そうな顔立ちをしている。駐車場を囲んだ群衆には、その聡明な顔立ちが却って詐欺師の薄汚さを纏って映った。
「子供の死刑執行人とは珍しい」
「年頃も近いし、王子と年齢を合わせたのだろうか」
「随分と酔狂なことですね」
会話に花を咲かせる冷たい瞳の観衆たち。執行人は、断頭台の縄を切るためのナイフの柄を握りしめた。腰に帯びた拳銃には、実弾が仕込まれている。
支度を済ませて暫く経つ執行人の従者たちは、目だし帽を被った顔を見合わせる。処刑の時刻はとっくに過ぎていた。
「今日も、その拳銃を帯びてくれていたのですね」
声変わりをしかけた、落ち着いた声で、罪人は呟き始めた。
「ヴォル……」
消え入りそうな声は、聴衆の乾いた笑みには届かない。
「ヴィルヘルム王子、王子が脱走すれば、成否を問わずに同じ結末が待っていることは見えていました」
罪人は負い目を感じてか視線を下ろし、執行人の顔を見ない。
「姫のことは残念でしたが、姫も貴方の自由を応援して下さっていました。ですから、ヴィルヘルム様は、どうかそんなお顔をなさらずに。短い人生でしたが、私は貴方に仕えることが出来て幸せでした。どうか、ご家族、仲良く……幸せに。お過ごしください」
落ち着いた少年の声が、涙で枯れていく。執行人は首を振り、罪人の横に膝をついた。
温度のない、冷たい風が吹く。乾いた唇から白い息が零れた。
温い雫が額に落ちると、罪人は困ったように笑う。
「そんな、困ってしまいます。ヴィルヘルム様。別れを惜しむ時間が長いほど、私の未練が、積もってしまいます」
木枯らしに枯葉が靡く。最後の抵抗もむなしく、木々はその葉を手放した。
彼はどれ程願ったのだろう。「もしも地獄があるならば」と。魂が滞留し、残る場所があるならば、と。
プロアニア王国における死とは、断絶である。それ以降には何もなく、そこで人間の意識はなくなる。生命活動は、心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔反応の停止で終了する。そこで、途切れてしまう。
彼が定められたとおりにナイフを振るえば、そこで全てが終わってしまう。14年間確かにあったはずのものが消えてなくなってしまう。
プロアニアの市民は礼儀正しく、処刑の瞬間を待っていた。暴れれば秩序を乱すからこそ、苛立ちながらも待ち焦がれている。膝を折り、ナイフを振るうことに躊躇う処刑人の心など、一体どのような価値があるのだろうか?
「そろそろ……」
声が掛かり、付き人達が王子のナイフを貰い受けようと近づく。王子は首を垂れたまま立ち上がり、断頭台の縄に近づいた。
歓声。従者の足踏みの音。風を切る音。
「うああああああああああああ!」
縄が切れる音。鈍が落ちる音。鈍い音。
木枯らしが吹く。執行人は血濡れの衣服のまま膝を降り、そこに在った空を撫でた。
もしも地獄があったなら。返り血で汚れた肌を、服の袖で拭う。真っ赤な瞳が、後始末をする人の背中を睨んだ。