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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1908年
293/361

‐‐1908年夏の第二月第二週、プロアニア王国、ヴァンマール・コトカン村‐‐

 ラベンダー畑の残骸が、紫色の花を咲かせる。豊かな草原に露に濡れた緑が輝いている。

 青空は高く澄み渡り、研究員たちは体全体でそれを受け止めることを喜んでいた。

 特有の蒸し暑さも排気ガスの臭いとは無縁で却って心地よく、周囲に人家の少ないこともあって、静けさが研究施設の全域を満たしていた。


 原子力発電施設の整備も少しずつ整い、平和兵器によるエネルギーの供給も、夢ではなく現実に限りなく近づいていた。


「冷却塔も異常無さそうだな」


 研究員の一人が整備室に座りながら呟く。冷却塔の内部は、巨大な水槽の中に配管を通し、それを水に漬け込んでいるかのようであった。配管は水中で光の屈折に合わせて揺らめき、水面に沿って歪んでいる。塔内の水は無色透明そのものであり、汚濁の兆しもない。

 塔内で冷却をするシステム自体が、周囲の環境による風化の恐れを軽減するのに役立った。


「排気ガスの臭いが無いというのは快適なものだね。妻も呼んで喘息の養生にしようか」


 研究員の雑談に、乾いた笑いが返される。プロアニア本国に資源を供給するという使命を、この研究施設も担うことが出来る。研究者たちは気楽に、そして誇りを持って勤務を続けていた。


「一時はどうなることかと思ったが、やはり開戦は正解だったのでしょうね」


 年若い研究者が呟く。彼は大戦で砕かれた顎を、人工皮革のマスクで覆っていた。


「犠牲は多かっただけに、凄まじい喪失感もあるが。得たものは大きかった。そうあってやらねば報われない」


 高齢の研究者が答える。彼は若者のためにコーヒーを淹れた。


「有難うございます」


 二人分のコーヒーが湯気を立てる。彼らは冷却水と同じように澄んだ水を注ぎ、コーヒーを冷やした。


 施設にある原子炉を監視するためのカメラには、作業員たちが往来する様子が映されている。コーヒーをちびちびと飲みながら、この退屈で責任の重い仕事をこなす。コップを近づけるたびに、仄かな苦みの中に果実のような香りが広がる。


 威力を調節するための打鍵の音が研究棟に響く。その音の規則的な、心地の良さを感じるのも、二人に与えられた重要な役割であった。


「それで、例の兵器についての進捗はどうだ?」


 老研究者は何気なく尋ねる。監視用の映像からは視線を外していない。


「順調です。どの物質にするのかも、早々に決まりましたから」


「そうか。流石はフランシウム閣下。何をさせても一流だな」


「また、『謎の霊感』だそうですよ」


 二人の研究者は声を殺して笑った。偉大な閃きをした際のフリッツの決め台詞である。

 彼らの間にあるファクスから、熱を帯びた感熱紙が吐き出される。定期的に稼働するファクスに、老研究者は手を伸ばした。

 作業場から、現在の温度や放射線量などを纏めた用紙が送られていた。老研究者は数値を確認し、小さなサイン欄にサインを残す。続けて、若い研究者にそれを渡し、彼も確認の上でサインを残した。

 観測された資料は確認済みと記されたキャビネットに収められる。そこにはすでに数枚の感熱紙が入っており、彼らのサインが残されていた。

 業務は滞りなく進んでいく。作業員の行動にも特別な問題はなく、交代の時間が訪れた。

 先程まで管理を行っていた研究者が二人立ち上がり、監視カメラの後ろに移動する。研究棟に二人の研究者が入り、彼らは管理用の装置に座り、注意深くパスワードを打ち込んだ。


「交代です」

「よろしく」


 老研究者は時間をかけて立ち上がり、膝を摩る。若い研究者が彼の分のコップを持ち、二人は休憩室へと入った。


 休憩室では換気扇が回っており、少々騒々しい。中央にある灰皿には殆ど灰になった煙草が捻じ込まれており、老研究者はそれに少量の水をかけてから始末を始めた。


「ふぃー……。座るのも一苦労だよ」


「ははは。お疲れ様です」


 老研究者は膝を摩りつつ、渡されたコーヒーを受け取る。コーヒーの中には眉間に皺の寄った老人の顔が映った。

 黙ってコーヒーを啜る。そのわずかな閑居に、二人の強張った肩が解れていく。


「そう言えば、戦時中に、ユウキタクマ博士の本を持参してきた先輩の兵士が一人いましてね」


 若い研究者がぽつりと零す。老研究者は視線だけを向けた。


 煙草のにおいがこびりついた灰皿には、灰のカスが点々と残されている。灰は水分を多分に含んでふやけ、汚水の中を泳いでいた。


「いや、なんてことはない話なんですが、その人は復学できずに研究者にはなれなかったみたいで。早々に顎を砕かれた俺の方が、幸運だったのかなぁ、なんて」


「それは災難だったね。各家庭の事情もあるから致し方ないのだろうが、技術開発に若い力は少しでも欲しい。悲しいことだ」


 老研究者は低い天井を見上げる。薄い壁の向こうから、装置を動かす打鍵音が響く。


「えぇ、本当に」


 換気扇がけたたましく鳴く。その隙間からほんのわずかな青色が射しこんでいる。


「終わってみれば、ただの祭りだったのかも知れないね。鬱憤を晴らすための、ただの祭り……」


 コーヒーカップを傾ける。暗い水面が揺れ、触れた唇から波紋が広がった。


「後に残ったのは、変わらない鬱憤、ですか……」


 老研究者は灰皿の中を覗き込む。水に浮かんでいた灰が、皿の上に貼り付いてしまい、離れようとしない。消えゆく一滴の中で、別の灰は皿の底へと沈んでいく。


「いやぁ、変わらないものなど……」


 研究棟からバタバタと足音が響く。


「大変です!原子炉で作業員が……!」


 青ざめた顔をした研究員が叫ぶ。二人はカップをその場に放り、急いで研究棟に駆け込んだ。


 ラベンダー畑の変わらない色彩が、風に揺られて靡く。緊急の廊下を辿って研究棟に運び込まれた「それ」を、防護服を着こんだ研究員が囲む。


「駄目だ……これは……」


 若い研究者が零す。老研究者も静かに首を振り、研究員の一人に声をかけた。


「生コンクリートの準備をしなさい。絶対に、誰も入れないように」


 昼下がりの蒸し暑さに、彼らの背中が汗ばんでいた。


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