‐‐1908年夏の第一月第四週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク2‐‐
コーヒーハウスでの議論が侃々諤々の議論なら、国会の討議は罵詈雑言の嵐だろう。野党議員からの質問に次ぐ質問、与党議員の怒号、飛び交うのは議論ではなく口汚い罵り合いであった。
アーニャは資料を捲り、既定の質問に答える。自分の元部下が用意した回答を確認し、表情が曇った。
当たり障りのない回答。そこに、元首に求められる徳目がある。自分もそうして回答を作っていたことを思うと、公国民にも、シリヴェストールにも、少なからぬ罪悪感を覚えた。
「アーニャ閣下、ご回答、よろしくお願いします」
議長の声が掛かる。質問内容を確認する。原子力発電所の建設計画に関するものであった。彼女はゆっくりと立ち上がる。
『専門的な事項のため、ご回答は差し控えさせていただきます』と回答には記されている。立場上、言うべきでない回答というものは確かにあった。
左翼の後列に控えるユーリーと視線が合う。彼は柔和に微笑み、軽い会釈をした。
「専門的な事項のため……私からの回答が専門家にどう受け取られるのかは分かりかねます。しかし、我が国の安全性へ対する信頼を思えば、原子力発電の開発に力を入れることは国民の幸福に寄与するものと考えます」
一瞬、議場が静寂に満たされた。質問に対する回答は用意されたものを答えるのが定石であり、礼儀でもあるからだ。
僅かに狼狽えながら、次の質問が飛んでくる。
「質問内容を確認されましたか?電力は不足しておらず、過剰な生産は決して有益ではありません。安全性に対する懸念も、議論の中にあったとおりであります。万が一の事故の場合には、貴方が責任を取るのですか?」
「ええ、その通りです。人口は今後も増加していくことでしょう。電力は必ず更に重要性を増していくインフラです。不足してからでは遅いのではないでしょうか。また、安全性についても、その責任の所在は私にあるのでしょう」
アーニャはすらすらと答える。長丁場の議論を更に延長するような回答に、両翼の議員は腕を組んで顔を見合わせる。どよめきの真中で、肩身の狭い無所属議員たちが賛否両論の声を上げた。
彼女は再びユーリーの様子を窺う。彼はゆったりと身構えており、この問題に関する議論にはさほど関心を示さない。
やはりそうだ、とアーニャは得心した。この問題は新たな分野であるため、与野党双方に『支持母体』の利権が絡んでいない。しいて言えば、既存の支持母体の意見を汲むことが要求されるが、与党議員ならば一応は科学者やインテリ層、都市の有産市民の意見を取り付ける意味で概ね賛成と予想されるが、支持母体の意見が判然としないユーリーに関しては、一先ず沈黙することが有効となる。その他の議論は自分の部下たちが与党憎さに展開しているに過ぎない。
ユーリーは目を細めて微笑む。静かな威圧感が、彼女の背筋に悪寒を走らせた。
「今後、化石燃料の不足が懸念されることもあるでしょう。今まで通りの暮らしを守るためにも、新たな発電装置の開発は、可能な限り多くのアプローチで進めていくことが効果的でしょう」
ルキヤンは発言を傾聴しながら頷く。大慌てするのは彼女の部下の官僚たちで、特に背後からは恨めしそうな視線が向けられている。
「公国民の暮らしを維持し、さらに発展させるために、原子力発電の開発は有用なものであると考えます」
当惑する議員たちが話し合いを始める。議長の静粛を求める声も、暫くの間無視され続けた。ユーリーが挙手をする。アーニャは思わず身震いした。
「えー、事前質問と異なる回答のため、議長、一度話し合いの休憩を挟むのはいかがでしょうか」
「そうですね。一度休憩を挟みましょう」
議長は懐から懐中時計を取り出し、眉を顰めてピントを合わせる。
「えー、では、十五分後、会議を再開いたしましょう」
議長が答えると、議員たちは立ち上がり、急いで仲間たちと輪を作った。ユーリーはすくりと立ち上がり、ゆったりと歩きながら、閣僚の席へと向かってくる。
より近い席にいるルキヤンが、先にアーニャの元へとやって来た。
「どうした?俺としては有難いが」
「少し確かめたいことがあったので」
「確かめたいこと?」
ルキヤンは官僚たちの恨めしそうな視線を遮るように立つ。ゆったりとした足取りで薄ら笑いを浮かべたユーリーが迫ってくる。
ルキヤンは警戒しながらも彼に席を譲った。官僚の心底不快そうな表情がユーリーに向かう。
「アーニャ閣下。今回は貴方の顔を立てますよ」
ユーリーは彼女の手をポンと叩き、狐のように目を細めて笑った。
「ユーリー様、有難うございます。しかし、何故沈黙を守って下さるのですか」
「兵器としての利用ではなく、平和利用ならば喜ばしいことでしょう。それだけでございますよ」
彼の背中越しに討議中の野党議員の姿がある。中年男性同士のつばの飛ばし合いは、見ていて気分のいいものとは言えない。
一方で、彼自身は優雅な巻き毛を細い指先で整えながら、飄々としている。
「貴方の同志たちは、あまり好ましく思っておられないようですが、それでよいのですか?」
「同志?さて、同志とは。奇妙な質問ですね」
ユーリーは巻き毛が整うと、真新しい腕時計を確かめ、わざとらしく声を上げた。
「そろそろあちらに戻らなければ。それでは、また」
それ以上の追及を許さない、細い目を向けて後退りをする。彼はそのまま席へと向かって、与党議員の議席の後ろを、後ろで手を組みながらゆったりと歩いていく。扇状の廊下には彼専用の通路があるかのように、ごく順調に席へと戻っていった。
「俺もそろそろ」
ルキヤンも彼と同じように退散する。もっとも、彼の場合には道を阻むように彼の仲間が声を掛けたり、手を伸ばしたりしている。
暫くルキヤンを見送った後、アーニャ自身も腰かけなおす。良質な木製の机に溜まった無意味な質問状を捲り、次の回答を確認した。
背中からは痛いほどの非難の視線が浴びせられる。相応の心配りをして作り上げた回答である。彼女にも覚えがあっただけに、その居心地の悪さは尋常ならざるものである。
「会議を再開いたしますので、どうぞお席にお戻りください」
議長の大きな声が響く。老眼鏡を持ち上げて時計を睨む議長の声に、真っ先に書記官たちが反応した。
議員たちがぞろぞろと議席に戻り始める。会議は二分ほど遅れて再開された。