‐‐1896年秋の第一月第二週、ムスコール大公国首都 サンクト・ムスコールブルク1‐‐
都心のコーヒーハウスでは、朝のティータイムを楽しむ紳士たちが各地の伝書板を片手に故郷の情報について話し合っている。未だ朝焼けが上り切らぬうちから、寝息を立てる女房から逃れるようにコーヒーハウスへ駆け込んだレフ・シードロビチ・アレクセヴナは、ようやく給仕された熱いコーヒーを啜りながら、ムスコールブルク・ジャーナル誌の、第一面を眺めていた。
『イーゴリ調査官、プロアニアにブリュージュ返還を要請』のタイトルが紙面の上部に踊る。我が国の和平交渉は平和的に済みそうだ、レフは安堵のため息を零した。
外務相の長官を務めるレフは、家に押し掛ける報道者のことが一等嫌いであった。コーヒーハウスに逃れたのは、何も妻が怖いからという理由だけではない。これらの相手をするのが大層不快だからというのもある。
報道者の言葉は、凄まじい影響力を持って社会を扇動する。長官であるレフにとって、朝刊の一面は、まさしく自分の役職と同じ読みに値する重要性を有していた。
コーヒーハウス内でもこの話題で持ちきりになっており、故郷の有名な社会学者や評論家の意見を持ち寄って得意げに議論を交わす大学生や、井戸端会議をする中年男性のちょっとした箸休めとしてレフの耳に飛び込んでくる。耳を澄まして新聞の文字をなぞると、彼は安堵の溜息を漏らして、三面の経済面を開いた。名門の皮革専門商社カルロヴィッツ皮革取引等株式会社が、今度はファッション界を取り込むらしいと記されている。彼は何株買っていただろうかと思索に耽った。
ようやく空も青く澄みだして、彼も背伸びをして仕事に向かおうと腰を持ち上げる。優しいガスランプの灯りも少し弱まり、店内もいよいよ混雑の兆しが表れ始めていた。
長財布を内ポケットから取り出したレフは、小銭の数に苛立ちながら、コーヒー代を先に取り出している。昨今の消費税増税で増えた小銭が、彼の苛立ちをすっかり個人的なものにすり替えていた。
会計を済まそうと立ち上がった彼は、窓の外で、住宅街側から騒々しい音が聞こえるのを耳にした。彼は咄嗟に椅子に座りなおす。冷や汗が額一面に広がり、彼の長い耳が敏感に音を感知する。足音と掛け声が近づくにつれ、疑念が確信に変わった。
「勘弁してくれよ……」
プロアニアのブリュージュ領有権を認めるべきだと、市民たちが声を荒らげて叫んでいる。足音は革靴からハイヒール、果ては子供靴まで多種多様で、何人かがプラカードを掲げている。ムスコールブルクの低い曇天にこだまするほどに、市街地からぞろぞろと行進する活動家たちの掛け声は、玉ねぎ型のドームの尖塔や、霜の降りた石畳の底まで響き渡り、ガスランプが商店の二階に灯り始める。プラカードが掲げられるのに合わせて、拳が天を衝く。曇天は晴れないまま拳を受け止め、活動家の行列は宮殿へと真っすぐに向かっていく。
「おい、またかよ……」
「よほど暇なんだなぁ」
「増税の時だけは味方してやりたいけどな」
行進の地鳴りが響く中、コーヒーハウスの客はすっかり外の景色に話題を移してしまう。レフは静かに頭を垂れて、壁掛け時計の針をちらちらと見上げる。この行進が、あと三十分で過ぎてしまえばいいと祈りながら。
「今日も遅刻ですね、長官」
定時を実に20分過ぎての出勤である。レフは司書のとげのある言葉に、三十度の角度を付けて頭を下げた。
「あぁ、すまない……。連絡書はプロアニア大使に渡したか?」
「はい。先程大使館からも到着の報告を頂きました。すぐに確認に入るとのことです」
「ありがとう」
事務室にはたくさんの真新しい電話機がある。これらはこの建物全体に張り巡らせた線を通して、各省庁と連絡が取れるように配置されたものだ。レフは自分のデスクに腰かけると、先ずは大量に貼られた付箋の内容を確認する。
カペル王国、プロアニア、エストーラへの調査報告の送付完了の通知、エストーラ政府からの異議申し立て、プロアニア大使館からの協議の申し出と予定時刻などが、机一面に気持ちが悪くなるほど貼り付けられている。そのうちから、既に完了を確認したものを全て剥がして捨て、残りを確認して返答用の白い紙をタイプライターにセットする。しばらくライターの打刻盤をじっと眺めてから、彼は慣れない手つきで文章を打ち込み始めた。
「おはようございます、レフ長官。これをお願いいたします」
彼以外に対してはため口を聞ける人物が、彼の机にまとめられた資料を置く。レフはあくびを噛み殺して答えた。
「おう、おはよ」
彼の隣に積み上げられたのは新たな報告書で、そこには調査官イーゴリからの追加報告が紛れていた。
彼は書類の山からそれを慎重に抜き取る。僅かにずれた定型サイズの白い紙は、角を少し垂らしながらも、バランスよく下の紙に乗りかかっている。
「現場の連中はすぐにこうやって後付けを寄越すから嫌なんだ」
長官らしい愚痴をこぼしながら、追加報告書に目を通す。そこには、ブリュージュへ逃れたプロアニア人資本家の処分に関する注意書きが記されていた。
レフは唸りながら、背もたれにもたれ掛かる。重量のないレフの肉体でも、古い座椅子は呻き声をあげた。
(騒動の原因はこれだな……)
プロアニアを震撼させた貧困問題に始まる狂乱の中、ブリュージュに逃れた資本家たちは、カペル王国内で保護されるか、プロアニアに逮捕されるかしたことだろう。
カペル王国に逃れた者は、反プロアニア側に味方をする。一方で、プロアニアに逮捕された者たちには、首の皮が繋がるように祈りながら、自らの役割を果たすことになるだろう。それは、プロアニアとムスコール大公国でしか通用しない電話機によるやり取りで、彼らの連絡先はムスコール大公国に住む経済界の重鎮達である。そして、その内容はプロアニアの行動に正当性を持たせるための地盤作りである。
プロアニアの深刻な食糧難に同情していたムスコールブルクの人々は、彼らの得意先や出資者からの嘆願によって彼らに味方する。そして、経済界を起点に始まった親プロアニア運動が、ムスコールブルクの町で発信される。
やがてはこれを新聞が第一報で報じることになる。すると、ムスコール大公国の地方にある季刊情報誌である伝書板が、この事件について各地に伝えることになる。ムスコール大公国内で十分に広まったこの運動は、世論の雰囲気を、元より関わりの深かったものも多いプロアニア王国の擁護へと向けていくことになるだろう。
厄介なことに、プロアニア王国擁護の支持を取り付けた事で、野党が責任問題を与党に問うことが正当性を得ることになる。こうして彼の上長が再び入れ替わるのかと思うと、レフは頭痛が止まらなくなる。
(冗談じゃない。先日、会食でいい手応えがあったばかりだというのに……)
たまらず頭を抱えたレフに対して、書類の山は容赦なく降りかかってくる。このままでは仕事が進まないと判断した彼は、この問題を頭の隅に置き、些細な書類から手を付けることにした。
やれ出張の承認だの、有給休暇申請書の「承認の承認」だの、些細な出来事に判を押しつつ、稟議書の内容をぼんやりと見つめて冴えない思考でやはり判を押す。
そうして最後に残ったのが、イーゴリの報告書であった。
レフは十分に納得感のある妥協案を前に頭をかく。経済界からの圧力ばかりは、人の心では太刀打ちできない。レフは改めてイーゴリの調査報告書を確認する。眉間を抑え暫く唸ったレフは、電話機のハンドルを回す。交換手の返事に被せるように、彼は回線の相手の番号を告げた。
「4715501673」
暫く交換手の作業を耳に入れる。耐え難い雑音が鳴ると、通信相手の返事が聞こえた。
「おはよう。緊急事態だ、アンナ。直ぐにこちらに来てくれ。要件?イーゴリ君の報告書のことだよ」