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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1908年
288/361

‐‐1908年夏の第一月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐

「プロアニアは原子力による発電事業の研究を始めたようだな」


 物置のように雑多な宝物が安置された室内で、ルキヤンは胡坐をかいた。相対するのは茶を汲むユーリーである。


「そのようですね。平和のために利用するのであれば喜ばしいことです」


 すまし顔のユーリーに対して、ルキヤンは不服そうな顔を向ける。ルキヤンは土産物の菓子折りを開き、自分好みの菓子をしなやかな指で持ち上げた。


「貴方は?」


 ルキヤンは半透明の砂糖菓子を指差した。


「その、硬そうなやつで」


「砂糖菓子ですか。どうぞ」


 ユーリーに手渡された菓子をまじまじと見つめる。白濁した中に僅かに砂糖の面影が閉じ込められており、結晶の中で雪のように浮かんでいた。


「ユーリー、実際のところ、原子力による発電にはリスクはないのか?我が国でも利用可能なら是非研究費を捻出するべきだと思うが」


「妙に積極的ですねぇ。化石燃料による発電の代替手段としては、悪くないとは思いますが」


 優雅な指使いで菓子を口に運ぶユーリーに対し、ルキヤンは砂糖菓子を乱暴に口へと放り込む。ばり、ぼり、と激しい咀嚼音が周囲に響いたので、彼は慌てて割れた砂糖菓子を舌の上で転がし、溶かすことにした。


「世のため人のためにと、あれこれ考えてきたのが大福祉国家ではありますが、そろそろ環境のことも考えていかねばならないのかも知れませんねぇ」


 ユーリーは唇を軽く舐め、甘味の余韻に浸りながら続ける。人工的な宝物の中に紛れて、貂の毛皮を縫合した大公のマントがあった。


「特に、今国内は反プロアニアの流れが強い。環境保全は開発主義のプロアニアと対峙するいいパフォーマンスになるんじゃないか?」


 ルキヤンの言葉を待たずに、ユーリーは菓子折りから一際柔らかい菓子を取り、それを突き出した。


「天は二物を与えず。何事も代償はつきものですよ」


 突き出されるまま、ルキヤンは好みでない菓子を受け取る。指で押さえたり、まじまじと見つめたりしながら、菓子を弄んでいると、ユーリーが大きなため息を吐いた。


「好き好きだとは思いますが、一度くらい試してもいいのでは?」


 細い指に巻き毛を絡ませる。柔らかい菓子を睨み、固唾を飲んだ男は、もう一度感触を確かめて、それを口へと運んだ。

 口の中でクッションのようなものがぐにゃりと潰れる。上顎を持ち上げると、粘土のようなものが歯に付着した。口の中が少しねっとりとしている。ルキヤンは歯を舌で舐めまわし、殆ど噛み締めずに菓子を喉の奥に押し込んだ。


「……好きではないな」


「端から期待していませんでしたが」


 年不相応なハリのある頬が持ち上がる。ルキヤンの不服そうな視線も気に留めず、彼は自分好みの菓子を頬張った。


「まぁ、宰相閣下様に委ねてみるのもいいのではないですか?」


「自分の利権に関わらないことは本当に興味がないんだな……」


「何故興味を持つ必要があるのですか?」


 指先に着いた砂糖を優雅に舐め取る。彼は何気ないことであるかのように、さらりと言い放った。


「いや、もういい」


 その後、宝物庫での茶会は静かに執り行われる。二人の名士は互いの顔色を窺いながら、国家の将来について語り合った。



 ムスコール大公国の名門、ムスコールブルク大学のエキゾチックな古い門は、歴代の宰相によってたびたびノックされた記録が残されている。それは世界ではじめに平和兵器の開発を提案した女傑ロットバルト宰相も当然含まれているし、かの悪逆非道の『災厄宰相』、シリヴェストール訪問も歴史の中に名を刻んでいる。


 だが勿論、ベルナールの教え子たちが何気なく登校してくるものの、その誰かがこの門に特別の意味を受け取るわけでもない。

 ただし、未来博士にして天文学の創設者、ユウキタクマ博士の初めの師、魔法生物学の大家ローマン・ルシウス・イワーノヴィチに煮え湯を飲まされたムスコール大公国の総主教座教会、コランド教会の聖職者にとっては、この門は一種の忌まわしさが感じられるだろう。


 世にも聡明な学術狂、ルシウス教授にすっかり言い負かされ、俗語聖典を出版して後、教会は女傑ロットバルトの執り成しによって初等教育機関としての役割を与えられた。

しかし、教育と信仰はいつの間にか切り離され、コランド教会の教義を信じる者も言葉ばかりで実を伴わないようになっていく。その大本を辿ればこのムスコールブルク大学に辿り着くのであって、しかもその門構えはより古い信仰からの産物である。コランド教会の総主教も流石にもう憎しみを抱いてこそいないが、隆盛を極めた信仰の時代の終わりが、この大学の門から始まったことに、思いが無いわけでもないだろう。


さて、コランド教会での祈りの日、つまりは週末の休日に当たる日に、ベルナールは大学の門の鍵を持っていつもの道を通っていた。

流石に休日唯一のイベントとあって、教会には収容人数を越える人の波が出来ている。祈りの日の説教を聞いたその足で、一体どこへ遊びに行くというのだろう?


ベルナールはそんな信心深い人々を尻目に、いそいそと大学の構内に入る。彼の研究室はいつも極秘の案件で一杯である。兵器の開発についてもそうだが、専門の理論についてはもっと忙しい。何せ政府には、彼くらいしか頼れる人がいないのである。彼は通学して間もなく、研究室に籠って投書の受け答えや学生のテストの採点など、休日にしか時間が取れないような事務作業を行った。


投書の中に、与野党党首の名前が揃って現れたので、ベルナールは早速うんざりさせられてしまう。内容はどちらも、「原子力発電の安全性についての問い合わせ」であった。


そんなものは、管理者の責任と自然災害の発生頻度とを比較考量して判断するものである。ベルナールは面倒なので、どちらの質問にも「都市や村落の付近でなく、管理が行き届く場所、かつ適切な管理と自然災害の発生頻度との兼ね合いで、安全性が大きく変わるでしょう」と適当にそれらしい回答を書き連ねた。


暫く事務作業を進めると、彼の老眼がぼやけてしまう。コーヒーを注いで一休みに入る。応接用の邪魔なソファに腰かけ、書籍の山を取り除いてコーヒーカップを置く。新聞各紙を開き、広告欄を何となく見つめながら、湯が沸くのを待っていると、ふと、視界に子供の愛らしい靴が入ってくる。愛らしいと言っても、身分の高い子供用の革靴で、燕尾服の尾が股の間から覗いている。視線を持ち上げると、白い手袋と、皮膚を完全に隠すために整えられたかのような潔癖な衣装を身に纏った少年の姿があった。


「ああ、ビフロンスさんですか。突然何か御用ですか」


ムスコール大公国では知らぬ者もいない。公証人役場に勤める歴史の生き証人、悪魔のビフロンスである。

前髪だけは整えられている、枝分かれした伸び放題の白髪、深紅の瞳、疲れた笑顔も相変わらずである。


「いえ。こちらの世界も、随分と歴史が進んでしまわれたな、と思いまして」


 ベルナールはカップをもう一つ取り出し、紅茶を淹れる。聡明なビフロンスは「お構いなく」と笑うが、ベルナールはそれを断って紅茶を差し出した。


「こちらの世界に長居をすると、どうにも気を遣われてしまって困りますね」


 ビフロンスは白い手袋を外し、苦笑を零す。露わになった手首は白手袋に負けないほどに白い。

 いや、白いというよりは青白かった。


「当然でしょう。ユウキタクマ博士の魂もエルド・フォン・エストーラの魂も、貴方が招いたわけですから」


「こちらの歴史に干渉するのはダメなんですけれども、時折情が移ってしまっていけません」


 少年は紅茶を持ち上げる。ベルナールもコーヒーを啜り、新聞を折り畳んで脇に寄せた。

 折り畳んだ新聞の記事を一瞥し、少年は複雑な表情を見せる。一面記事は、『核兵器の大量開発』と、『エストーラの新兵器、航空機の可能性』という大きな文字が並んでいた。


「ああ……。我々からすれば少し古い内容ですが」


 ベルナールは視線を読み、淡々と答える。両人ともに、書物の海がよく映える佇まいである。


 ビフロンスは何もない空間から、そこにある本棚から取り出すように、古い本を取り出した。それは、悲惨な冷戦について記された本であった。彼は書籍を捲り、視線を落とす。


「僕らの世界は何とか破滅を切り抜けられましたが、こちらの世界はどうでしょうか」


「予断を許さない状況です」


「あまり言いたくはないのですが、破滅するときは一瞬です。どうにかして人々の関心を逸らした方が宜しいかと」


 消え入りそうな嘆願の声が響く。紙の壁に吸い込まれて消えてしまいそうな、弱々しい声である。ベルナールは何かを感じ取り、彼の手から本を取り上げる。パラパラと本を捲り、流し読むと、静かに本を閉じて返した。


「あなたが私の所に来た理由が、少し分かった気はしますよ。最善を尽くすことにします」


 少年は深々と頭を下げた。


「僕の記録に良くない結末が残らないように、どうかお願いします」


 ビフロンスはそれだけ言い残し、ベルナールの視界から忽然と消えていった。


 ベルナールは、客人のいた証拠である紅茶の入っていたカップを片付ける。


「宇宙開発事業か……」


 ベルナールは流し台でコップを洗い流すと、早速机に座りなおす。暫く思いつめた面持ちで座っていたが、やがて普段の事務作業に戻っていった。


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