‐‐1908年夏の第一月第一週、アーカテニア、マドラ・スパニョーラ‐‐
「修道会が保護しているというカペル王家の姫を、是非ご覧に入れたいものだ」
夏の風が薫る海原に、海鳥が飛び交っている。古いフリゲート艦が錨を下ろして海原を漂い、大きな桟橋の先では真っ白な服を着た水兵が訓練をしている。
祭服を身に纏った高齢の男が、広い裾を潮風に晒しながら手を合わせていた。男は穏やかな空模様を占い、俗人の従者に語り掛ける。
「どれもこれもあのサビドリアという男のせいだ。折角濃い青い血を息子に継がせられるというのに」
彼はぽつりと呟き、身を翻す。修道会のある広い街路に向かって、龍の旗がはためいていた。
「法王猊下、サビドリアのもとに伏兵を送り込むのはいかがでしょうか」
「馬鹿言え。私達の中に、一人でもあの魔術師に勝る能力の者が在るか」
法王と呼ばれた男は、落ち着き払った様子で答える。聖職の最高位者と見るには、あまりにも豪華な馬車や、艶やかな髪を持っている。
「アーカテニア王位を退いて暫く経つが、まだ聖職者だけは支配できない。それもこれもサビドリアのせいだ……。忌まわしい、忌まわしい……」
港から海水を引く水路が道の脇にある。それは水産市場へ向かって流れており、時折小魚の影のようなものが見えた。水路を辿るように暫く進むと、魚の生臭いにおいが漂う市場へと辿り着く。庶民が生け簀に浮かぶ鰯を買い、アサリを掬い上げて秤にかける。貴族達の使用人は海老や鱈を買い、狭い通路の端にある件の水路には板がかけられている。法王は鼻を押さえて水路を辿り、やがてそれが途切れると鼻から手を離した。
馬車は中心街の中を、砂埃を上げながら進む。木製の車輪が高級住宅街に辿り着き、ようやく速度を落とした馬車は、今度は町で二番目に背の高い建物を目指して進む。
複数のアーチが重なるように左右両翼に並び、中央の最も巨大な本棟には中心にドームを持つ。
広場の中心にカンテラを掛けるための大きな柱が立ち、そのフックは錨をモチーフにした二又のものが採用されている。そこに掛けられたカンテラの文様で、何処の貴族出身の守衛が現在の当番であるのかが分かる。
広大な敷地は白い石で整備されているが、人の往来が多い中心部を花崗岩の石材で形成しており、人の往来が無い装飾のような広場を脆い石膏で敷き詰めていた。
「猊下、お履物を」
「うむ」
馬車が宮殿の本棟に近づくと、従者が煌びやかな履物を取り出す。法王と呼ばれた男は、履きにくそうにそれに足を入れた。
馬の嘶きを合図として、馬車が停車する。先ずは従者が降り、周囲の様子を窺う。その後従者は法王と呼ばれた男をエスコートして、馬車を降りた。
「この国では教会が実質的な王となっている。だから剃髪の儀式も執り行ったというのに。忌まわしいサビドリアめ……」
「猊下、この場にあっては恨み言もお慎み下さい」
「そうであった。我が宮殿だというのに、何故に気を遣わねばなるまいか。忌まわしい、忌まわしい……」
「猊下……」
従者が肩を落として法王を見つめる。法王は地団太を踏むように荒々しい足取りで、宮殿の中へと入った。
見るにも鮮やかな城内は、絵画に溢れていた。天井を見れば絵画、壁面を見れば絵画、柱の中にも絵画。アーカテニアの宮殿は、兎に角何かに取り憑かれたかのように収集された絵画が飾られている。それは、由緒あるエストーラのベルクート離宮や、ペアリスが誇るペアリス宮、最新のデフィネル宮の比ではない。壁面は全てが絵画と言ってよく、黄金と白銀の額縁が無ければ、その継ぎ目すら見えない程である。
「相変わらずこてこてとして見苦しいことないわ」
法王は恨み言ついでと言わんばかりに呟く。
祭服の裾を引き摺りながら、床にまで広がる、仄暗い絵画の海を歩く。
「猊下、会場はそちらではなく」
従者に耳打ちをされて右往左往する法王の額には青筋が浮かんでいる。長らく王族が住んでいない、儀式のためだけに設けられたような宮殿には、案内の表札すらないのである。見飽きるほど見た絵画を何度も繰り返し視界に収めることになり、彼は段々と足さばきを荒くしていく。
「不格好な上に不案内だ。不誠実で暗い瞳の我が一族にはお似合いだ」
「猊下」
「ええい、分かっておる!」
法王は何度も来た道を戻っては、案内人代わりの従者に恨み言を飛ばす。暗い宮殿の中にある無数の瞳‐‐それは宮殿の住民である絵画の中の人々のものである‐‐だけが、生き生きとした笑顔を湛えていた。
もっとも、その瞳に光は宿らない。法王の言う通り、暗い瞳の住民たちである。
「旅人や吟遊詩人、大聖堂の文化を受け継いだカペル王家の文化はもっと奔放で溌溂としておったぞ。エストーラで見たオペラは忘れられぬ。優雅で上品な、耳で聞く芸術だ。我が国だけがこの体たらく!お高く留まった聖職者が幅を利かせておるのが悪いのだ!今どき何だ、御羊の御座のい草とは!」
「猊下!」
癇癪を起しながら進む法王は、ようやく目当ての扉を見つけた。それは忌まわしいことに絵画で満たされ、迷宮のように入り組んだ幾つものモチーフが並べられている。ドアノブまで意匠をこらされており、法王はそれを握るなり眉根を寄せた。
「回しにくいことないわ。こんなドアノブなど」
最後の恨み言を零すと、彼は乱暴に扉を開いた。
暗い瞳のヴァン・ダイクたちが一斉に視線を合わせる。乗馬ズボンの膝丈ほどまである、長いブーツを履き込んだ貴族達は、口元だけで含み笑いを作った。
「お待ちしておりました。アルフォンゾ・デ・カペシアーノ法王猊下」
「歓待痛み入る。積もる話もあるが、早速始めようか」
気持ちの籠ってない挨拶をすると、法王は堂々と玉座に腰かけた。
彼の刺々しい瞳は、真っすぐにサビドリアを睨んでいた。