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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1908年
285/361

‐‐1908年春の第三月第四週、プロアニア、ゲンテンブルク3‐‐

 ケヒルシュタインの研究室に戻るために、荷造りをするフリッツのもとに、来客があることを告げられた。コロキウムの個室には科学相としての仕事道具が散乱しており、その中に件の奏上もあったのだが、すっかりブリーフケースに収まってしまった。


「どなたでご用件は?」


「アムンゼン・イスカリオ宰相閣下です。ご用件はトップ・シークレットとのことです」


 事務員の返答に、思わず顔を顰める。彼は観念して荷物を机の下に置き、『ご案内しなさい』と疲れた声で返した。


 きまりが悪くここ数日宮殿への直接の出勤を差し控えていたが、遂にお呼びがかかってしまったか。フリッツは上衣掛けに掛けられた白衣を着なおした。羽織る際に靡いた白衣から、僅かに薬品の臭いが広がる。


 やがて、ノックの音が室内に響いた。


「どうぞ」


 フリッツが短く答えると、相変わらず猫背のアムンゼンが扉を開け、丁寧に礼をした。


「ご体調が優れませんか、フランシウム閣下」


「優れないのはご気分の方ですかね」


 フリッツはきっぱりと答え、アムンゼンをソファに案内する。アムンゼンは恭しく頭を下げると、革製のソファに腰を下ろした。


 真新しいソファに皺がつく。アムンゼンの角張った尻の形のために、複雑な皺が幾つも交差していた。


「コーヒーですか、紅茶ですか」

「コーヒーで」


 フリッツはコップを下ろし、ケトルを持ち上げる。コーヒーを丁寧にドリップしつつ、待機するアムンゼンに声をかけた。


「ご用件は?」


「件の兵器について、是非研究を進めてみたいと考えておりまして」


 フリッツの動きが硬直する。慌ててお湯を注ぐのをやめて、目を見開いたまま振り返った。


「今、なんと?」

「コーヒー」


 アムンゼンに促されるままに、湯気の立つコーヒーを運ぶ。フリッツは彼の向かいに前傾姿勢で座った。

 アムンゼンは配膳されたコーヒーを啜る。顔色一つ変えずに続けた。


「陛下に御奏上されたとのことでしたので、いろいろと考えを巡らせた結果、フランシウム閣下の提案された兵器には十分な有用性があると判断いたしました。陛下にも確認を取っておりますので、今すぐにでも開発を進めさせるつもりでおります」


「ど、どど、どういった風の吹き回しですか。陛下は先日『威力の落ちる兵器などいらない』と仰っておりましたが」


 困惑するフリッツから一瞬視線を外したアムンゼンは、猫背を更に曲げて、声を忍ばせて語り掛けた。


「私からご説明させていただきました。軍事に携わる者としても、使える資源は可能な限り破壊したくない。それはペアリス戦での教訓でもあります」


 現在、再開拓を進めながらも、王都ペアリスでは多くの餓死者を出しているという。無差別に破壊しつくされた都市や耕地のせいで、開発がままならないというのは、もっともらしい理由に思われた。


 フリッツはそれでも納得がいかず、生唾を飲み込む。強張った表情を見上げながら、猫背の宰相は口の端で笑った。


「私は、フランシウム閣下が現状最も頼りになる廷臣の一人だと思っているのです。オーデルスロー閣下の後任……あれは失敗でした。あまりにも知恵足らずです」


「あまり世辞を言ってもらっても困ります。私としましては、貴方に認められるというのは、居心地が悪いくらいなのです」


 フリッツがそう答えると、アムンゼンはコーヒーを啜り、視線を逸らした。膨大な資料が並ぶ中に一つ、良く知られた古い学術書があった。


 明らかに日焼けをして劣化したそれは、紙質も、装丁も、現代のものとは異なっている。紐で括られただけの八つ折り版の書籍は、書籍の中で随分と異彩を放って見えた。


「『モンド・ルーナス』ですか……」


「ああ、書棚の……」


外国(とつくに)にも学者は数あれど、我が国で名の知られる学者は彼くらいでしょう」


「最初の天文学者ですからね。あまり意味のある研究とは思われませんが……」


 フリッツは言いかけて、持ちあげたコップを下ろした。降雪の中で、無邪気に語り合う学生達の姿が脳裏を過る。長い沈黙の後、取り繕うように言葉を続けた。


「研究者にとって、分野の先駆者という地位はもっとも栄誉ある権威と言えるでしょう」


「そういうものですか」


 互いにコーヒーを口に流し込むだけの、気まずい時間が続く。五分にも満たないごく短い時間ではあったが、フリッツにとっては酷く長い時間拘束されたように思えた。


「それでは、ご報告だけですので。失礼いたします。是非、宮殿にもお顔を見せて下さい」


 アムンゼンはすくりと立ち上がると、腰を丸めたまま歩き出した。フリッツは遠くのものを眺めるように目を細めて、彼が扉に消えていくのを見送る。


 アムンゼンが立ち去ると、彼はコーヒーを流し込み、再び荷物を纏める作業に取り掛かった。


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