‐‐1908年春の第三月第四週、プロアニア、ゲンテンブルク2‐‐
バラックの宮殿に戻る頃には、ヴィルヘルムの外套に排気ガスの臭いがこびりついていた。王は不満げに服を払いながら、自身の執務室へと向かった。
「お帰りですか、陛下」
「アムンゼンか。フリッツに呼ばれてね」
王はさらりと答え外套をアムンゼンに投げる。
「フランシウム閣下が御奏上をなさったのですか?」
意外な出来事に、アムンゼンも開口一番に聞き返した。その反応が面白かったのか、ヴィルヘルムはくっく、と声を抑えて笑う。
二人は見せるためだけの無意味な装飾がある廊下を進み、殺風景な居住区へ至る。同伴する家臣に向けて、ヴィルヘルムは大仰な仕草を伴って答えた。
「そうなんだよ。わざわざ威力の低い兵器を紹介してきたから、少し驚いてしまった」
王の自室に辿り着くと、ヴィルヘルムは早速執務用の席へと向かう。簡素な椅子に腰かけたヴィルヘルムは、肘掛けに肘をつく。腰に提げていた拳銃も机上に置き、姿勢も崩して足を組んでいた。
「どのような兵器なのですか?」
「やはり軍人だね。理論の方は面倒だが、どうやら建物を破壊せずに人だけに被害を与える兵器のようだ」
「人だけに、ですか」
アムンゼンは怪訝そうに眉根を持ち上げる。その反応を面白がりながら、王は足を組み替えた。
「そう。中性子線を使うと言っていたな」
「中性子線……」
「さすがの宰相閣下も分からないか!出し抜けた気分で少し気持ちがいいね」
目を泳がせるアムンゼンに向かって、笑い声が浴びせられる。ヴィルヘルムは目じりの涙を拭いながら、「フリッツに感謝だね」と呟いた。
ゲンテンブルクの空は以前に比べれば随分と曇りが晴れた。それでも工場の排煙は変わらず空に伸び、行き交う自動車のためにきついガスの臭いが漂っていた。それは宮殿にも届くほどで、王は鼻を抑えながら続けた。
「戦争になった時に慈悲が破滅を招くのは、エストーラからの教訓ではなかったかな」
赤い瞳が嗜虐的に光る。回答を迫るその瞳は、期待よりは共感を求めていた。
「……」
その時、宰相の猫背は少し酷くなっているように見えた。自信なさげに映ったためか、ヴィルヘルムも話題を変えようと仕事の話を切り出す。アムンゼンは空返事で応じて、思索に耽った。
そもそも、フリッツ・フランシウムと言う人物が、まさか考えもなしに『格下の兵器』を提案するはずはない。アムンゼンは、彼なりに同等以上のメリットがあると考えたに違いない、と短い会話を振り返った。
人だけに被害を与える兵器であり、建物の破壊を最小限にする。拠点などとしてそのまま建物を利用しても良いし、後のことを考えれば、兵器の提案自体はそれほど悪くないものに思われた。
王はペンを手に取り、それを指で回し始める。反応の薄くなった部下に時折視線を送り、不服そうな顔をして見せた。
殺風景な執務室に、秒針の音が良く響く。
アムンゼンは更に考えを巡らせる。もし仮に、同等の成果を挙げられるとフリッツが想定したのであれば、彼の脳裏にはそれ以上の戦果が齎されるのではないかという仮説が立てられる。
彼は顔を上げ、平坦な口調を守ったままで言葉を挟んだ。
「陛下。フランシウム閣下は、人だけに被害を与える兵器と言ったのですよね」
「ん?そうだね」
王は呆けた表情を彼に向ける。彼は、強い閃きにより思わず顔が綻ぶ。無表情な男の不気味なほくそ笑みに、王は訝しげに首を傾げた。
再び、不気味な沈黙が場を支配する。秒針の音が響き渡り、あと二分ほどで長針と短針が真上を指し示すだろう。
アムンゼンは、その兵器が実戦で利用されたとしたら、フリッツの願いとは反対の結果が得られるだろうと期待した。即ち、「人だけに被害を与える兵器」とは、「表層の分厚い装甲を貫通して相手の戦力を壊滅させる兵器」と言うことではないか?本来破壊を免れるような金属製の装甲や遮蔽物を『貫通』して、乗組員全体に甚大な被害を齎すような兵器とも言い換えられるのではないか?
彼はフリッツの願いを承知で、敢えてそれを利用する可能性に思い至った。
「開発を進めてみてもいいかもしれません」
王は暫く沈黙する。目を瞬かせる彼に、猫背の宰相はそっと耳打ちをした。
時計の針が正午を示す。機械的な予鈴の音が、部屋の中に響き渡った。