‐‐1908年春の第三月第四週、プロアニア、旧カペル王国領ヴァンマール‐‐
かつてこのヴァンマール地区コトカン村には、カペル王国の主宰神であるカペラも愛する、広大なラベンダー畑が広がっていたという。ラベンダーはカペル王国にとって欠かすことの出来ない霊草の一つで、食品、薬草、香油、儀礼用の奉納品などとして重用された。
コトカン村の一角にはその名残が残っており、一面のと言うには少々慎ましい数のラベンダー畑が点々と残っている。
その、点々と残るラベンダー畑の上に、人工的で機械的な建造物が聳え立っていた。
四方を高い塀に囲まれ、塀の外部からは大きな排熱塔が覗いている。黄色と黒の禍々しい支柱に囲まれた入り口には、赤いランプが下げられており、呼び出し用のインターホンが取り付けられていた。
小銃を持った警備員が、塀の周囲と鉄条網付きの防護柵の周囲を巡回している。そこには緑豊かなラベンダー畑の姿はなかった。
こののどかなヴァンマール・コトカン村に、不釣り合いな黒塗りの車両が訪れる。栽培されていた名残のラベンダーを踏みつけて、黒い革靴を履いたフリッツ・フランシウムが同地に降り立った。
なだらかな丘陵と、海へと流れていく豊かな河川。周囲に建物は疎らであり、変電機や送電装置の取り付けに必要な土地も十分にある。周囲に建物を邪魔するものはなく、また冷却水も豊富に入手できる海沿いと言うこともあって、そこは彼に与えられた使命には最高の立地であった。
彼は帽子を胸元まで下ろし、澄んだ空気を吸い込む。霧と煤煙に毒された肺には、それは冷たく心地よく、全身に力が宿るように思われた。
暫くすると、建物の門前にあるランプが赤く点灯し、ブザーが鳴る。紋が厳かに開かれて、中から真新しい衣服を纏った案内人が現れた。
「お待ちしておりました、フランシウム閣下」
恭しく頭を下げる案内人に、フリッツは静かに微笑む。踏みしめたラベンダーから放たれる香りが、高揚した気分を冷静にさせる。
「お待たせして申し訳ありません。交通整備に引っ掛かりまして」
「いえいえ、とんでもございません。さ、さ。是非、ご見学を」
案内人は入り口を指示し、フリッツを招き入れる。彼が近づくと赤いランプが再び灯り、耐え難いブザー音が辺りに響き渡った。
「お聞き苦しいとは存じますが、これも厳重な警備のため、どうぞご理解ください」
「えぇ。核分裂技術は、我々にとっても重要な技術です。当然のことです」
扉が開き切ると、彼らは塀の内側へと入場した。ラベンダー畑の名残が、雑草のように点々と見られる。それらは塀の影に隠されて、しおらしく萎んで見えた。
何重にも重ねられた同様の塀が、その先にある建物の重要性を示唆している。警備員がフランシウムに向けて敬礼をし、無線機で扉を開けるようにと促した。暫くして、再びブザー音と共に、扉が開かれる。フランシウムは高い塀の頂上を見上げながら尋ねた。
「これは誰の手なる設備なのですか」
「えぇ、設計はプロアニア公認建築士のものですが、実際の建設には旧カペル王国人の方々も携わっております」
分厚い壁には塗装の盛り上がった部分がある。
「なるほど」
何重もの塀を越えると、高い冷却塔と四角い建造物が現れる。建造物は四つあり、案内人は長方形の最も大きな建造物を指し示した。
「あちらがフランシウム閣下のご考案なさった、核分裂を用いた電力発電装置のある棟です」
「なるほど」
一歩踏み出そうとするフリッツを、案内人が止める。
「防護服をご着用いただく必要がございます。あちらはトップ・シークレットですので、今回は、あちらの研究室へ」
彼が指さしたのは、長方形の建物と連なる正方形の建造物であり、そこには警告を示す看板が取り付けられていた。
「なるほど」
フリッツは粛々と答えると、案内人の後ろについて、この建物に入る。入るなり、除染室があり、そこで外部の汚れを取り除くように指示を受けた。フリッツは言われるままに靴を脱ぎ、上着を脱いで、ワイシャツとスラックス姿になる。そして、その上から、案内人に手伝われながら二重に防護服を着せられた。
「退出時、万全を期すために防護服は次の部屋でお脱ぎください」
案内人は次の部屋へと案内する。そこは、防護服が籠一杯に詰められた部屋であり、それ以外のものは一切存在しなかった。
「防護服はここで脱ぎ、脱いだ防護服は焼却処分されます」
無機質な室内を、防護服の曇り越しに眺める。青白い室内にぽつんとある白い照明は、心なしか明かりが弱く思えた。
「それでは、フランシウム閣下、この先では核分裂に関する研究と発電設備の監視が行われております。是非、お楽しみになって下さい」
案内人が扉を開ける。扉の先には、彼らと同じ防護服に身を包んだ研究者たちが、まさに研究の只中にあった。
真っ白な明るい建物の中に、モニターを幾つも付けた区画がある。案内人は先ずその区画へと、フリッツを招き入れた。
「閣下、ここが発電装置の安全性を監視するために設けられた設備です。死角の一切ない監視カメラによる監視で、二十四時間緊急事態に対応できるようになっております」
「研究に先立つ者は安全です。素晴らしい設備ですね」
フリッツは発電所内の様子を眺める。薄暗い建物の中を、防護服を着た人々が歩いている。彼らとは違うカメラの中に、原子炉内部を映したものもあった。
「原子力発電は、その基本的な考え方に火力発電とそれほど違いはございません。火力により高温で水蒸気を作る工程を、原子炉で利用する点のみが異なっております」
「使い終わった燃料はどうしているのですか」
「現在研究中でして、再利用の可能性が示唆されております」
「なるほど……」
フリッツは監視カメラを凝視する。同じような服装の人物が管理をしている光景は、どこか不気味に感じられた。
案内人が細かく装置の説明を始める。水を汲み上げるポンプ、原子炉と発電タービン、冷却塔による冷却装置などである。
「廃棄される燃料は放射能汚染の恐れがございますので、厳重な処理を行ったうえで、最終的には地下深くに埋め立てております」
「地下ですか」
「えぇ、地下のずっと深くです」
案内人が視線を足元に向ける。防護服用の足先は長靴のように分厚いゴムで守られていた。
「そろそろ、最新の研究について、ご案内いたしましょう」
案内人は含み笑いを浮かべる。彼に案内されるままに研究室を案内されたフリッツは、従来の平和兵器の構造に、さらに水素原子が記されていた。
「これは……」
フリッツはその図を見て思わず吐き出しそうになった。
「異なる種類の水素原子が、超高温に晒されてヘリウムを形成する……。地上に太陽を作るというのですか」
「さすが化学博士、フランシウム閣下に解説は不要でしたね」
案内人の含み笑いには深い闇が宿る。案内人がその仔細に至るまでを解説するにつれ、フリッツは激しい頭痛と吐き気に襲われる。際限の無い破壊の礫が、今まさに作られようとしていた。
「今日は、ご案内頂き有難うございました。大変に貴重な体験が出来ました」
フリッツは何とかそう口にする。案内人と握手を交わし、足早に研究室を退出する。
防護服を脱ぎ、除染室へと飛び出す。体中を綺麗に洗い流すと、建物から逃げるように飛び出した。
高い冷却塔の影が、正方形の研究棟に掛かっている。彼は握手を交わした右手を何度も振り払い、車へ駆け込んだ。
踏みしめたラベンダーの香りが鼻に届く。手指をアルコールで消毒しながら、彼は彼が発案した発電設備を睨みつけた。
青く澄んだ空の下、未舗装の道を、黒塗りの車両が逃げるように駆けていった。