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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1896年
28/361

‐‐1896年秋の第一月第二週、エストーラ、ブリュージュ‐‐

 秋のブリュージュはイーゴリにとってあまりにも過ごしやすかった。もう秋の第一月だというのに、寒波の一つもない。半分凍った大地が昼に泥濘になり、朝には霜が立つということもない。長年凍てつく冷気に身を震わせていた彼にとって、この場所は文字通りの楽園であった。


 考えてみれば、扉も一枚で、断熱用の二枚目の扉がない。エントランスが広くて快適なのにもかかわらず、暖炉がいくつもなく、またその煤が異臭を放つこともない。曇天よりは快晴が多い。

 あの不快な一件さえ無ければ、この場所に移住できないものかとさえ考えるほどだ。


 安い紙煙草を燻らせ、ブリュージュ伯爵邸の一室で静かに思索に耽る。鈴虫の鳴き声が夜の静けさに馴染んで、煙草の甘みがますます透き通って味わえるように感じた。


 彼は一服ののち、『平等』に研ぎ澄ませた感性のスイッチを入れる。轡の男が言う心無い兵士達は、果たして心無いが故に、あの、彼には正気とは思えぬ言葉を放ったのだろうか。もし、あの時の安全装置を外す音が、どこからともなく聞こえるとすれば、彼と同じことを言うのではないだろうか。


 煙草を再び口に運び、故郷を踏み躙られた人々のことを思う。

 ブリュージュの邸宅や食糧庫はもぬけの殻であった。これから冬の支度をしなければならないという本能的な危機感は、ムスコール大公国に一年も住めば骨身に「凍みる」ほどよくわかる。凍り付いた生肉をそのまま食べることさえある。

 その為の下準備や貯えを唐突に奪われた絶望と恐怖は計り知れない。

 何よりも人を豊かにするものは余裕である。大福祉国家を銘打つ彼の祖国が常に思いやりに満たされているのは、彼らに余裕があるからに過ぎない。今のブリュージュ人のほとんどが、凡そ正常な判断を下せないだろう。


 煙草の灰を灰皿に落とす。灰は白とも黒ともつかないままで、煙草の形を未だ残している。

 彼は頭をかく。このままプロアニア王国の言うとおりにすれば、ブリュージュは飢えて死んでしまう。しかし、ブリュージュ占領を一蹴してしまえば、今度は道中で目にしたプロアニアの庶民たちはそのままやつれて動かなくなるだろう。事態は確かに逼迫している。しかし、判断を急ぐことはできない。


 夜の空に鱗雲が浮かんでいる。月光を阻むその輪郭はほんのりと白く、中央部は深い闇と同じ色に染まっている。


 紙煙草の残量が少なくなると、彼は石の灰皿にそれをねじ込み、火の気を消し去る。立ち昇る煙が薄く細くなると、雲の切れ間から月が顔を覗かせた。

 戦後処理とは、当事者にとってはいかに素早く憎しみの芽を摘むかである。プロアニア兵は今もなお、広場に集って作業を続けている。


 彼は溜息を零す。口から漏れた白い煙が、天井へ向かって昇っていく。ニコチンの蠱惑的な不快臭が鼻を掠めた。


「食料は有限だ。互いに分け与えることはかなわない」


 ブリュージュの市民は根っからの商人気質である。最悪、積み立てた信用を使って食料を工面することができるだろう。プロアニア人は用心深く迷信深い理論派である。彼らは簡単に手を差し伸べてくれる人を知らず、また周囲も手を差し伸べることはないだろう。人好きのする、人として好感を持てるのは確かにブリュージュ人である。しかし、イーゴリの祖国は命に価値を付けるべきでないという。ならば、救うべきは多数派の命で、かつ致死率の高い飢餓のほうである。


 イーゴリはペンを取った。手に馴染んだ万年筆を軽く人差し指で撫で、強く濃く、報告書に認める。


『私は、プロアニアがブリュージュを返し、エストーラやカペル王国がプロアニアに食料の工面をすることが賢明ではないかと考えます。これは、平和の悲願をかなえる最善の方法であり、プロアニアに住む無辜の民の命を救うために最善の判断であろうと考えられるためです。その理由は7つあり……』


 祖国が望む答えに沿っている。イーゴリは長く深い息遣いで、報告書を書き進めた。

 用心深い夜の月が鱗雲を身に纏う。虫のさざめきが草木のざわめきに呼応するように鳴り、秋の乾いた風に乗って、鉄のにおいが部屋まで漂ってきた。


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