‐‐1908年春の第三月第一週、エストーラ、ホーストブリュック‐‐
鶏の頭に亀の甲を背負い、射干玉の黒い魚の尾を持つ不死鳥が飾られた投票所に赴くと、数えられないほどの群衆で入り口が塞がれておりました。
ひしめき合う人々は口々に「誰に入れるか」と囁き合い、隣人と投票者が異なると少し気まずい雰囲気が漂うようになります。講堂の裏口へと馬車を回し、閑静な市街地側から講堂内に入りますと、既に何人かの革靴が揃えて置かれておりました。玄関の前に並ぶスリッパに履き替え、廊下に尻を見せぬように横向きで靴を揃えると、狭い廊下の先にある控室から、闊達とした議論の声が響いておりました。
えぇ、貴族だけではなく、庶民も立候補しているのだという証左でございます。細い廊下を滑るように摺り足で進み、控室を覗き込みます。先ず見えるのは常緑の観葉植物が、大きな植木鉢に植えられて立っている様子です。丁度良く陽の当たる一等地に佇んでおり、艶やかな光沢のある葉の先には茶色がかった若葉が生えております。
若手立候補者が私に気づくと、『ホーストブリュック家の……』と小さく囁かれます。私は何となく居心地が悪くなり、会釈を返して入室いたしました。
白い簡素な机に、立候補者の数だけ椅子が用意されております。どれも良質とは言えない椅子で、座面は木製、座布団のようなものもなく、飾り立てのない室内によく馴染んでおります。
それは却って貴賤の別なく立候補者をもてなしてくれる、粋な計らいとも言えましょうか。
「リウードルフ様がいらっしゃるならば、我々の出る幕はありませんね」
末端の貴族が自嘲気味に零されました。この「やんごとなき青い血」は、皇帝陛下の人気が年を追うごとに高まるにつれて、却ってその確固たる地位を更に盤石なものとしたように思われます。私は苦笑を零し、棘のあるお言葉を受け止めることとしました。
講堂には、歴代ホーストブリュック市長、つまりは参事会員の中で決められた参事会の議長の肖像画が、控え目な大きさの額縁に収められております。それは壁面上部をぐるりと一周し、現市長のものはありません。市長の肖像画が飾られるであろう場所に、当の市長が静かに座っておられました。
こうして見回してみると、新旧両権力者が一堂に会する会議室には、ぎこちない空気が漂っているように思われます。互いに腹の内を探り合うような慎重な口ぶりで、議論を交わしているようにも思われるのです。
それは政治の禍々しい側面そのものでございます。互いに柔和に距離感を測りつつ、腹の探り合いをして、音もなく息の根を止める。互いに一歩たりとも譲らぬ陰鬱な緊張感の中、貴族が育んできた悪意の表象でしょう。私を警戒する目が無数に、穏やかな表情の仮面の裏から伸びております。
地位のために相争うことは、あまりにも悲しいことです。
「逞しく 窮しに染まず 青々と 立つ常盤木は どの門閥か」
しん、と空気が静まり返りました。私は視線を動かして、立候補者の表情を確かめます。
意味を知る者、知らぬ者に、貧富の別などございません。どちらにも理解する者、そうでない者が居ります。表情一つ取っても、それは容易に汲むことの出来ることでしょう。
「私にとっても驚くべき事態ではございますが、この基本法の大幅な改正には、その立法の趣旨には、広く臣民の意見を聞き入れ、より豊かな国家を育んでいこうという意思があるはずです。どこそこの門閥が何たるかと、口々に罵り合うのは不毛なことですよ」
「それもそうですね」
一人がそう答えると、私の入室に強張った表情は幾らかほぐれ、朗らかな議論が再開されました。
いつか特権階級の何たるかが忘れ去られる日も来ることでしょう。青い血の交わること広く、薄くなりゆくとしても、問うべきはその血の貴さではございますまい。基本法改正にはその意味が込められているということです。
「そろそろお時間のようです」
一人が懐中時計を取り出して仰います。一同は講堂への入室のため、支度を整え始めました。
手で髪を整えるもの、服の皺を伸ばす者、声を出す練習をする者などです。私も、タイを強く締め直し、尻にできた皺を伸ばし、上衣を着なおして、帽子と杖を手に取ります。扉の近くにいる者から順序良く、廊下へと退出していきます。
「恨みっこなしですよ」
若手の立候補者に声を掛けられ、静かに微笑みを返します。
都市で一際高い鐘楼から、澄んだベルの音が町へと響き渡り、いよいよ、運命の日が幕を開けました。