‐‐●1908年春の第三月第一週、エストーラ領ハングリア、ジュンジーヒード‐‐
白い川面が延々と流れゆく。せせらぎに合わせて夜が明け、市壁から見下ろす景色の中に人集りが出来た。
フェケッテは静かに目を凝らし、耳をぴんと立てて士官学校を眺めている。
その日、二つの川に架かる橋を渡るのは、軍人ばかりではなかった。黄色い顔をした野心家の市長や、白い顔をした高貴な身分の貴族、頭一つ突き出した黒い顔の人や、極端に背の低い人、みすぼらしい姿の出っ歯の人、そして舌を出して歩くコボルト達。多くの「顔」が一直線の橋の上をぞろぞろと歩き、士官学校の競技場へと進んでいく。
そこが一等大きな敷地を与えられたのは、この都市を象徴する施設だからである。その都市が一等期待を寄せるその場所に、相応しからざる人々が往来する。
全ては鉄製の箱に、意思を伝えるためである。手元には、文字でなくてもいいように、家紋も描いた投票用紙がある。フェケッテはそれをくしゃりと握りつぶして、ポケットの中に突っ込んだ。
「あー、もったいね!」
「まだいたのかよ!」
彼が振り返ると、城壁を上ってきたルイーゼがのんびりと歩いてくる。心底鬱陶しそうな表情をしたフェケッテの尻尾が左右に揺すられた。
その動きを確かめると、ルイーゼは勝ち誇ったように自慢げに笑って、後ろ手を組んで近づく。彼女はそのまま、フェケッテの隣に陣取った。
隣り合った二人が静かに町を鳥瞰する。フェケッテには見える人の往来は、ルイーゼには殆ど視認できない。街角の隅々に至るまで張り巡らせた道路も、彼女の視界には細い糸のようにしか見えなかった。
「投票には行かんの?」
ルイーゼは手を突っ込んだポケットに視線を送る。ポケットは乱雑に入れられた投票用紙や手のために、酷く膨らんでいる。
「俺一人行っても変わんねーだろ」
「そうやって一人も行かねぇと、なんも変わらんよ?」
耳がピクリと動く。ルイーゼは意地悪そうに笑い、脚を市壁の外に投げ出した。
黄色い日が白く変わり、茜色の空が青く変わる。士官学校の門前には見たこともないような人が集まり、或いは人でなかった人が集まっている。
「変わんねーよ。人ってのは」
遠い世界を眺めるように、門前の様子を眺める。ルイーゼには視認できないような、米粒のような人々が、乗馬した貴人たちに道を譲っている。
太く土で汚れた指先で市壁をしっかりと掴みながら、ルイーゼは尻尾を注視する。
「変わるんよ。人は」
尻尾がゆらゆらと揺れる。ごわごわとした太い毛は箒のようだ。ルイーゼは嬉しそうに口角を持ち上げて、フェケッテの鼻先を見上げる。湿った鼻先は、つやつやとして白く光っていた。
「本当に行かんの?勿体ないよ」
フェケッテは煙草を取り出す。ポケットから零れ落ちた投票用紙が地面に落ちる。
尻尾がそっと股の中に納まる。
煙草に火を灯す。燻らせた副流煙が天に昇っていく。
彼は甘い香りに縋る。
「私は難民だから、貰えなかったのになぁー。もったいね」
彼女はくしゃくしゃになった投票用紙を拾い上げて開く。高い市壁の上で風が吹き抜けても、分厚い紙は飛んではいかない。
投げ出された足がぶらぶらと揺すられる。彼は少し視線を下ろして、彼女の爪先を見た。
都市の近郊で畑作業を終えたためか、靴は泥に汚れている。土は乾燥し始めており、白い日になるよりずっと前に、その場所を離れたことを物語っていた。
「……お前は、今の仕事、嫌じゃないのか?」
「腰が痛い以外は別に嫌じゃないね」
ルイーゼは投票用紙を返しながら答える。開かれた用紙の中には、啄木鳥紋もあった。
「私は嫌なら、とっくに逃げとるよ」
彼女はくしゃりと笑った。尻尾が静かに、股の間から外に出ていく。
フェケッテは黒い毛並みをぶるぶると振り、体に居ついたノミを落とした。ルイーゼがはしゃいだ様子で「ちょっと」と言って、ノミから身を護る。フェケッテは尻尾を僅かに振り、右手を上げて謝罪の意を示した。
彼は高い市壁をひょいと飛び降りる。壁を二、三度蹴り、見事に着地すると、気だるげに町の雑踏へと消えていった。