‐‐1908年春の第三月第一週、エストーラ、ノースタット‐‐
首都ノースタットで最も収容人数の大きい場所は、中央広場でしたが、そこでさえ、この大人数が押し寄せてくれば、耐え難い程の窮屈さでありました。
改正帝国基本法に則った、初の代表者選挙は、皇帝陛下の誕生週に行われることとなりました。遂に大臣としての役が下りた家臣たちは、一同、一先ず立候補しておくという形で選挙の様子をご覧になっております。
侍従長である私は例外ではございましたが、議員として立候補した各大臣方は、どこか緊張した御様子で、鉄製の投票箱に目を凝らしておられます。
投票開始時間に先立って、広場の周囲には人、人、人。ここに神意が降り来たかのごとく、爛々とした瞳が幾つも輝いております。
「皆、緊張しているね」
陛下は、アインファクス様が顎を引いて立っておられるのを見つめて呟かれました。どこか落ち着かないご様子で、枠外の者である私などからすると、何となく微笑ましく思われます。
「彼らの取り組みが評価されるのですから、緊張するなと言う方がずっと難しいですよ」
それもそのはず。各大臣にとって、これは試験のようなものでしょう。陛下にせよ私にせよ、部外者には面白く、愛らしくも見えますが、当人からすればこれまでの自分が掛かっているわけでございます。陛下は柔和に微笑まれて、「そうだね」と、静かに答えられました。
ノースタットの代議員は、都市の人口割合に応じて数名と割り当てられております。同様に各都市の規模によってその当選人数は定められておりましたが、これは人口の推移によっても変動するということで、ノースタットの人口がいかに密集しているかというのを、まざまざと見せつけられました。
陛下も圧巻のご様子で、銀製の杖に手を添えて、静かにご様子を窺っておられます。
開場の合図となる、教会の鐘楼が鳴り響きます。市場は寝静まり、代わりに信じられないほどの人数の有権者が、我先にと広場へかけてまいります。
アーカテニアの牡牛の如く、ともすれば砂埃でも巻き上がりそうな勢いで、臣民が投票箱へまっしぐらに向かわれます。
かと思えば、彼らは投票箱を素通りして、先ずは陛下の御前に跪きました。
目を瞬かせる陛下に、丁寧なあいさつをした臣民は急ぎ投票箱へと戻っていくのです。私は誇らしい思いもしましたが、それ以上に当惑する陛下のご様子が大層面白く、思わず表情が緩んでしまいました。
「陛下、愛されておりますねぇ」
意趣返しと言わんばかりに、アインファクス様が一言仰います。陛下は銀製の杖を掴んだ手を離し、恥ずかしそうに口元を隠されました。
その後も、それが規則であるかのように、臣民は陛下にご挨拶に向かった後、投票箱に出来た行列に並びます。
その生き生きとした表情の、なんと清々しいことでしょうか。
広場の芝生にはいくつか人集りが出来ております。寡黙なアインファクス様は都市近郊の農民達に詰め寄られて、あれこれとちょっかいを出されておりました。大臣や貴族といったしがらみが消えた為か、あるいは元から弟子同然だったためかは判然と致しませんが、和やかな雰囲気でございます。
フッサレル様の周りには市井の職人たち、特に伝統的な物品の制作を生業としている方々に話しかけられておりました。その内容は専ら趣味に関することで、多様な趣味を持つ職人たち一人一人に合わせて受け答えをされておりました。
広場には、親に連れられてきた子供達もおりました。手を引かれてきたかと思えば、広場の遊び場に飛んでいき、私の存じ上げない奇妙な遊びなどを始めておりました。玉遊びが出来ない窮屈さですから、手指を用いた遊びや、駆けっこのような遊びをしております。それはごく自然な、子供らしい愛らしいものでございました。
さて、雑踏の中、陛下は小さな椅子に座られて、遠くまで延々と繋がる行列を、目を細めてご覧になっております。口元は僅かに持ち上がり、皺で弛んだ頬も僅かに紅潮しておられます。
「ノア」
「はい、陛下」
春の馨しい花の香り。咲き誇る花はいずれ萎み、枯れ落ちることを運命づけられております。
陛下が鼻をすする音が耳に届きます。
「今、我が国の新たな歴史が始まるのだ。私は、この場所に立ち会う事が出来て、本当に嬉しい」
穏やかな声音は少しだけ上ずり、陛下の御手が銀製の杖から離れます。陛下はそっと目を抑えます。御手を伝って、芝生に涙が滴り落ちました。
落涙に花の色が映ります。高貴の白がしめやかに咲いておりました。花冠は雫を受け止めて、黄色い雄しべに雫を滑らせます。それは青々とした芝生の中にあって、ひと際瑞々しく、儚くも美しく輝いておりました。
おしべとめしべが交わり、花が枯れ落ちれば、そこには新たな命が芽生えるもの。軍靴に踏み躙られ、薬莢に圧し潰された草花が、僅かな時のうちに再び芽生える。それもまた道理でしょう。
「……はい」
広場には、歓声が響き渡っております。帝都ノースタットの臣民が一堂に会した祝福の饗宴は、投票時間が終わるまで絶えず続いておりました。