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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1907年
274/361

‐‐1907年冬の第二月第一週、エストーラ、舞台座‐‐

 環状道路沿いの店舗が息を吹き返し、長らく沈んでいた敗戦の空気も随分と立ち直って参りました。生活水準は地域にもよりますが戦前の水準まで回復を遂げ、ムスコール大公国からの毛皮の輸入も再開されると、人々の装いも華やかな毛皮に元通りとなりました。


 その朝、民間企業による舞台座での公演を前にして人集りの出来るその玄関口に、陛下を乗せた白馬の馬車が入場いたしました。

 開演前の僅かな時間を使って、陛下から大切なご報告がある、という報せもあり、ノースタットの市民は手には旗を掲げて花道を作っております。


 長い歴史の中で、ノースタットのこの場所……都市の末端であった市壁のあったこの場所に、これ程の人集りができたことがあったでしょうか。私は陛下に先んじて御用車両を降り、陛下の手を取ってエスコートします。長い忍耐の時代に負った深い傷、つまりは戦時中の肉体的、精神的な無理が祟って衰えた陛下の玉体が現れると、市民はこぞって旗を振り、大歓声を上げます。陛下は気丈に手を振り、市民と握手を交わしながら舞台座の玄関へと歩んでいきます。


 舞台座の玄関にあるほんのわずかな段差、数段の段差を、老体に鞭を打って昇って行かれると、温かいご声援が私達の背中に掛けられるのでした。


 陛下は一度振り返り、腰の前で手を組むと、深々と頭を下げられました。市民の大喝采が起こります。

 高く掲げられた国章の旗、鋭い犬鷲の眼光。臣民一同が、その大切な日に、大切な玉音のために、舞台座に集ったのでした。


 私は玄関を開きます。幾何学的なアーチの数々と、色褪せることのない陛下が愛した動物たちのモチーフが、優しく、陛下を出迎えます。陛下はエントランスに進み出て、一度シャンデリアの吊り上げられた天井を見上げると、一筋の涙を零し、やがて舞台の控室へと進まれます。舞台座の受付が深々と頭を下げ、陛下からの労いのお言葉に感涙を零します。


 警備員たちの制止を振り切って、一斉に入場を断行する市民が、波のように押し寄せてくると、陛下は小さく微笑まれ、舞台座の控室の中へと入っていかれました。


 受付は大騒動でした。臣民が陛下のご挨拶のためにと、座席指定でも定員割れでもお構いなしにチップを投げ込むからです。感極まって涙を零した受付も、泣いている時間などありません。慌ててせっせと入場券の手配をして、市民一同を案内しています。我先にと会場に群がる一団の、荒々しい姿は忘れようも御座いません。私は市民が入場を果たした後で、舞台座へと上っていきました。


 会場にひしめき合う人々のほかに、広場では特に貧民のために設置された、ムスコール大公国製の無線放送機に向かう人もおります。陛下の御言葉を、スピーカー越しとはいえ拝聴するということで、老婆が手を合わせております。


 さて、満席の舞台座に戻りましょう。陛下と共に演劇を観覧した席で、私は静かに息を呑みました。シャンデリアの灯りは全灯で、仄暗かった劇場を一等明るく演出します。臣民は陛下の優し気な尊顔をようやく拝めたと、疲れておられたが少し元気になられてほっとしたと、喜び賑やかに騒ぎ、語り合っております。階上の席を予約した貴族達は、豪奢なワインをグラスに注いでぶつけ合い、騒々しさに呆れながら目を細めております。


 劇場の幕が揺れ、皺の寄った指先が少しだけ幕を開けました。臣民の様子を窺われたのでしょう。思わず表情が綻びます。


 やがて開演のブザーが鳴り、周囲が薄暗くなります。シャンデリアの灯りが半分になり、幕が開くと、スポットライトに照らされた陛下が、ゆっくりと、深いお辞儀をされました。


 会場に万雷の拍手が響き渡ります。陛下は気恥ずかしそうに微笑まれ、拍手が弱まると姿勢を整えて語り始めました。


「皆様の温かいご声援が、この日のためにどれほどの力となったでしょう。臣民の全て、富めるものも貧しいものも、老いも若いも問わず、その全霊の最善のお陰で、私達はここまで目覚ましい復興を遂げました。今も傷つく多くの臣民たちがおります。そうした臣民たちが、未来を信じて歩めるように、私は、この先の帝国のことを信じて、新たな基本法を公布することを決めました」


 臣民が歓声を上げます。『皇帝陛下万歳』と、何処からともなく声が響きます。

 陛下はやはり困ったように笑われて、手を組み替えられました。


「先の災害が私達に与えた教訓を基に、自衛平和を謳い、臣民の幸福を第一として、臣民の思いを政治に組み込むような主権国家、即ち、国民が主権を持ち、国民の人権が尊重されるような国家、それを目指して基本法を定めました。廷臣や、青い血を継ぐ貴族の方々、政治の専門家や各都市の市参事会員からご意見を頂き、ようやくここに公布することが出来たことを、私は、本当に嬉しく思います。この基本法の下では、象徴君主として、私は政治の舞台を退きます。ですが、何ら不安なところはございません。何故なら、臣民の皆様が、未来のエストーラを明るく照らしてくださると信じているからです」


 陛下はゆっくりと、照明を仰がれました。再びの喝采が劇場に響き渡ります。陛下は劇場に響くことのない、ごく小さな声で、何かを囁かれます。それは、新帝国基本法の序文でございました。


 平和の願い、平等な命、多様な文化への思いが、その口から静かに零れ落ちます。最前列の立ち席で耳を傾けるごく少数の臣民が、つ、と一筋の涙を零しました。


 希望を。私達の信じるものと、誰かの愛する者たちへ希望を。

 陛下が静かに舞台を降り、劇場の幕が今一度おります。臣民の愛する公演が、祝福の祝詞となって、舞台座に響き渡りました。


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