‐‐1907年夏の第二月第四週、プロアニア王国、ゲンテンブルク3‐‐
宮中の廊下をふらふらとうろつく老人がいる。重い足取りで、やつれた顔一杯に汗を流している。足を持ち上げるたびに小さな呻き声を上げ、通りかかる従者が思わず顔を向けるほどに酷い顔をしていた。
掌が壁に触れるたびに手形がつく。ぐっしょりと汗を握った手で何度も壁に手垢を残して、老人は亀の歩みを進めていく。
(ああ、もう!あの小童め!)
荒い息遣いで、鬼の形相を持ち上げる。眉間に出来た深いしわも、鼻の頭に寄せた皺も、宛ら般若の如き荒々しさである。
必死に足を持ち上げ、何とか執務室へと戻ると、彼はフローリングの上に倒れ込んだ。
荒い呼吸を整え、乱暴に引き延ばされた体の節々に襲い掛かる酷い痛みのために蹲る。関節という関節が悲鳴を上げ、腰の痛みなどは尋常ならざるものである。どうにも腕が持ち上がらず、今にでもこなさなければならないような政務‐‐例えば研究所の場所の選定など‐‐もとてもではないが手につかない。憐れな老人は地面を這い、何とか椅子の背凭れにしがみついた。
重い体を持ち上げ、蛇が枝を這うように姿勢を崩しながら椅子へと這い上がる。椅子に座るに際してさえ、体中に鈍い痛みが走った。
「ああああああ、老体に鞭打って、どうするつもりなのか!」
やはり仕事どころではない。エーリッチの屈託ない笑顔が脳裏を過ると、彼は薄毛に守られた頭を掻き毟った。
怒りに任せて疲労を吐露すること二十分、遂に猛り疲れて作業机に突っ伏した。
科学相フリッツにとって、それは不思議な感覚であった。
体中が節々痛み、疲労困憊のあまりに体も自由に動かせず、硬いマットの上に座らされて床ずれのように尻がひりひりとした。しかし、体中の痛みと引き換えに、悶々とした仕事の悩みも立ち消えてしまった。
机の上に顔を埋め、暗闇の中に自分の吐息を零す。顔に受ける温もりに、加齢臭が微かに臭い、汗臭さに顔を顰める。
雪の降る町を思い出した。オレンジ色のガス灯に、しんしんと雪が降り積もっている。傾斜の激しい家屋の屋根が連なり、白い化粧の端から氷柱を垂らしていた。月も星も見えない曇天の中を、笑いながら駆けていく若者たち。いつもくだらない話をし、禿げ頭の教授の間抜けな真似をして腹を抱えて笑い合う。喫茶店に集って気になる異性の話で盛り上がり、時には耳を真っ赤にする者もある。
そして、時折見せる真剣な表情。突然起こる専門分野に関する議論。その、新鮮さ。鮮やかなまでの多様な温度を見せる表情。あまりにも輝きに満ちた、その表情を。
思い出した。
彼はふと顔を上げる。大量の専門書がある。母国語で書かれた大量の専門書である。中には専門外の新しいものも、専門の古いものもある。その全てが輝きを放って、彼の眼に届く。
‐‐嗚呼、虚しい。‐‐
フリッツは身を起こした。机の上が吐息の露で濡れている。白衣の袖で机を拭い、ペンをノックして起こす。
白紙の紙の上に、元素記号を書き連ね、分子を書き連ねた。
ダイヤモンドと木炭を図示してみる。黒い原子を線で結合していく。無造作に書き連ねた中に、ふと、アンモニア分子が現れた。そこで、彼の描いた線が静かに繋がった。
白紙の落書きを丁寧に捲る。王国の地図を開き、赤ペンをノックする。そこに、建設予定地となりそうな場所を、丸で囲い込んだ。
続けて白紙に手書きの提案書を書きこむ。丁寧な言葉の運びで、原子力資源による電力の安定供給を、新兵器の開発と並行して行いたい旨を提案書に書き込む。化石燃料の資源枯渇に関する懸念も、ケヒルシュタインの廃炭鉱に関する言及を通して盛り込む。更に、同都市における化石燃料産出量の推移について、その資料を持ち込むようにと内線を掛ける。
今度は、疲労困憊の際にした、ぎこちない所作を忘れてしまった。