‐‐1907年夏の第二月第四週、プロアニア王国、ゲンテンブルク2‐‐
「何の悲鳴だろうね?」
「猫か何かでしょう」
上級会議室で待機していたヴィルヘルムが、天井を仰ぎながら呟く。アムンゼンは空返事で応じ、目下の資料を目で追いかけた。
「猫背の君が宮中に猫がいるというのか」
ヴィルヘルムはからからと笑ったが、相対する者からは何の返答も受け取れなかった。
人間一人が必要とする摂取カロリーは例外を除き概ね定まっていると言える。アムンゼンの視線の先では、旧カペル王国領の人口と、徴収された食料の総数から推察される収穫量は、丁度一人当たりの平均摂取カロリーから問題ない数値を示していた。
「仮に着服があったとしても、その収穫量に問題はないと読み解けます。であれば、農業従事者の無計画が原因かと」
粛々とした回答に、ヴィルヘルムは呆れ顔で返す。
「どうせそうだろう。彼らは文字の読み書きも出来ないのだし」
ヴィルヘルムもこの問題に関しては、正しい回答を用意してはいなかった。あるいは、わざわざ関心を持つ程のこととも思えなかった。
赤い電灯と同化した瞳は、顔の赤に染まるのに相まって益々目立たない。アムンゼンはヴィルヘルムの顔色をうかがう。白い頬は上機嫌に持ち上がっている。
「ですが、改めて彼らの農業について、少なからずテコ入れをしておいたほうが良いかと」
「ほう」
アムンゼンは丸い背中から上目遣いでヴィルヘルムを見上げる。興味深そうに歯を見せるヴィルヘルムは、顎で言葉を促した。
「今後、国内情勢の安定化に伴い、人口が漸進的に増加していくことが予想されます。それは経済成長の助けにもなりますが、当然食料の需要は増えるということです。つまり、この人口増加を支えるために、旧カペル王国領に我が国の肥料や農業技術を提供し、収穫量の安定化を図ることは、殖産興業の一環としても注目すべき事項と言うことになります」
アムンゼンの奏上に、ヴィルヘルムは得心して頷いた。
猫背の宰相は僅かな時間視線を外し、右手の人差し指を置いた位置に視線を送る。
(現地で規則通りに徴収した結果、同地での配給が行き届いていない可能性もある……)
彼にとっては、同地の農業従事者は貴重な労働資源でもある。『国家』が『無償で』賦役を強制できるという点で、非常に優秀な資源と言える。労働資源を増やしも減らしもさせず、これまで通りの労働環境を整えてしまえば、それほど彼らの反乱を恐れる必要もないだろう。彼の考えは非常に合理的であった。
人間の内心を考慮しないというただ一点を除いては。
王は既にアムンゼンの意見を酌むようにと、閣僚に内線電話を飛ばしている。アムンゼンは横目で流し見る視線に対して、素っ気ない表情を返した。
ヴィルヘルムが上機嫌に受話器を置いては番号を打ち込み、短い会話を挟んでは受話器を置く。狭い上級会議室に、何度もベルの音が響き渡った。
そうして指示を続けていたところ、一人だけ受話器を取らない閣僚がいた。四度の呼び出し音が続いても、受話器を取る様子が微塵もない。
ヴィルヘルムの表情がみるみる強張っていく。
「フリッツは不在か?」
左の指先が机の上を乱暴に叩く。狭い上級会議室には、その音は必要以上に大きく響いた。
アムンゼンは階上で騒々しく動く音に耳を澄ましながら、呆れ顔で溜息を零した。
「畏れながら、少し時間を置いてお掛け直しください。ここの足りない者に絡まれているようです」
彼は自身のこめかみをとん、と叩く。ヴィルヘルムは片眉を持ち上げ、天井を仰いだ。
老人の呻き声が痛ましく宮中に響き渡っている。聞くに堪えない声と共に、扉を乱暴に開いたり、地面に何かを押し付けたりする音が響く。
「……そうすることとしよう」
ヴィルヘルムは受話器を置く。首筋を掻き立ち上がると、赤い明かりの電源を落とした。